出仕するのが気が重いだなんて何年振りだろう。地方勤めは気楽で居心地も良かった、そ
んな風に後ろ向きになる自分にも嫌気がさした。
「おはようございます」
どんなにゆっくり歩いたところで、最後には目的地へ辿り着いてしまう。ミゼットは交
代勤
務の上官に向け、儀礼的に敬礼した。
「遅いわね。念入りに化粧でもしていたの?」
「申し訳ございません」
その言葉をそっくりそのまま返してやりたい。夜勤明けのくせして、全然化粧崩れしていな
いのは何故だ。腹の中で毒づきながら、ひとまず無感情に詫びを入れる。そして、引継ぎの
書類に手を伸ばした。すると、唐突にその手を捻り上げられる。
「あら」
上官はさも今気付いたように、ミゼットの指のある一点を見詰めた。
「方々で馬鹿みたいに媚を売っているから、てっきり一人かと思ったら、決まった人がいた
のね」
「ええ、まあ」
適当に返しながらも、ミゼットは力づくで相手の手を振り払う。数日前から知っていただろ
うに、何を今更言い出すつもりだ。あのとき以来、上官の嫌がらせが格段に激しくなった。
「いいじゃない、もっとよく見せて」
視線の先には、天然石の付いた指輪が光る。それはつい先日ゼインに買ってもらったも
ので、勤務中も身に着けられるようにと一応はシンプルな造りになっている。しかし、見る人
が見れば、その価値も意味も容易に窺い知ることが出来る。贈った本人はお守りだと言っ
たが、今となっては呪いのアイテムにしか見えない。
「どんな手を使えば、こういうことになるの?大層ご立派な方なんでしょう」
でしたら予科生からやり直したらどうですか、なんて言えるわけがない。
「そんな、大したものではありません」
「見せつけてくれた上に、まだ上を狙おうっていうの?呆れるくらい図々しいわね」
「いえ、そういう意味では…」
自分から見たがったことをもうお忘れですか。
「だいたいあなた、一昨日の儀礼のときのあの立ち振る舞いは何なの」
「申し訳ございません。何かいけなかったでしょうか」
儀式の前にひととおり手順を確認し、侍従からもこれといって特に何も言われていない。
うまくやったつもりだ。
「目立ち過ぎ。誰もあなたに何も言わないのは、あなたが良いからじゃない。あなたなんて
どうだって良いのよ」
「大変申し訳ございません。その上で、ご指導いただき、ありがとうございます」
「勘違いしないで。別にあなたのために言っているわけじゃない。あなたのせいで自分ま
で恥をかきたくないだけ」
しおらしく頭を下げると、上官が苛立つのがわかった。
「それから、これはあなたのためを思って言うけど」
「はい」
「最近、なかなか隈が消えてないみたいね。花の命ってね、案外短いのよ」
自分がもう若くないことなんて言われなくても充分わかっている。もう限界である。
「ありがとうございます。なかなか実感のこもったご助言ですね。それも切羽詰まった」
「は?」
白目を剥く上官に余裕の笑みを送ってやる。
「なんて無礼な!」
上官は憤死寸前である。一触即発、あわやつかみ合いが始まるかと思われた。
だが、そこは両者ともに大人である。大人になり、知恵が付いた分話が大きくなった。
怒りに狂った上官は、不服従の門でミゼットを告発した。ついでに何のかんのと騒ぎ立
て、身に覚えのない命令違反まででっち上げた。
すぐさま形ばかりの聞き取りが行われ、上官は一方的にミゼットを責め立てた。ミゼッ
トはといえば、反論するのも馬鹿らしくなって、適当に相槌を打った結果、とてつもなく反
抗的な部下にされた。
そして、反抗的な部下には減給一月の処分が下された。生憎お金には困っていない。
こんなものは痛くも痒くもない。そう高を括っていた。だが、事態は思わぬ方へ向かった。
その日の夕刻、彼女の処分が連絡用の掲示板に張り出された。見知らぬ人間に後ろ
指を指され、彼女は顔から火が出るほど恥ずかしいおもいをした。未だかつてこれほど
の屈辱を受けたことはない。
「なんなのよ」
怒りに燃えながら掲示板に手を伸ばす。すると、何者かがひと足早く張り紙を破り取っ
た。
「何やってんだよ、お前は。馬鹿じゃねえの」
無遠慮に罵声を浴びせられ、驚いた彼女はすぐさま顔を上げた。
「レックス!」
「全然変わってないな、ミゼット。本当進歩なし」
「言わないでよ、凹んでるんだから」
懐かしい顔に思わず力が抜けた。城内で同期に会うことは稀だった。
「いい歳して喧嘩でもしたのか?」
「喧嘩なら、私の隣にもう一人貼り出されるでしょうね」
「あ?まさか、お前…上官とやりあったわけじゃ」
「しょうがないでしょう。売られた喧嘩は買わないと失礼じゃない」
自然とそんな言葉が口を吐いて出た。こんなこと、他の誰にも言えやしない。
「とっとと帰って先生にどやされろ」
「知ってたの?」
「知らない奴のほうがいねえ。お前、今晩帰りづらいっていうんなら、俺んち泊めてやって
もいいぜ」
「間に合ってるわよ!だいたい、そんなことで先生は怒らないもの」
「これで怒らなかったら何に怒るんだよ。本当馬鹿だな」
「もうバカバカ言わないでよ」
言いながら、涙が上がってきた。悔しさからではない。安堵である。
「馬鹿、泣くな」
「泣いてない」
「わかったから、もう帰れ」
城内は正に針のむしろである。残っていたところでまともに仕事になるわけがない。
旧友に言われるがまま、結局そのまま帰路に就いた。
ひとりになると、再び言いようもないくらい、ひどく不愉快な気持ちになった。自己嫌悪
と上官に対する怒りとが入り混じり、心がざわざわと騒がしい。何かしていないと居られ
ず、帰宅してすぐに炊事場へ立った。
「あ…」
棚へグラスを戻そうとして、手が滑る。床へ着くなり、グラスは音を立て割れた。粉々
になった破片を見ながら、苛立ちが増した。衝動的に隣のグラスを取る。そして、空中
で手を離した。グラスが割れる音に、今度は少しだけ胸がすうっとした。
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