その日は珍しくシェールの気が立っていた。ここのところ連日雨降りで、外に遊びに出られないため、鬱憤がたまっているのだろう。小さな子供のことだ。無理もない。
流石に気の毒に思い、タリウスはユリアと代わる代わる食堂で相手をしていたが、シェールの苛立ちはおさまらない。
「お兄ちゃんのバカ!」
何もかも気に入らない思いで、シェールはタリウスの手を振り払った。すぐ傍で見ていたユリアの表情がさっと変わる。何か言おうとしたが、それよりも早くタリウスが動いた。
「馬鹿とは何だ」
弟の腕を取ると、自分のほうへ引き寄せる。
「取り消しなさい」
シェールは答えない。そこで、タリウスは空いているほうの手をシェールのお尻目掛けて降り下ろした。
「いやぁ!」
嫌がるシェールの前にすぐさまタリウスが屈んだ。
「そういうことを言ってはいけない。汚い言葉は心まで腐らせる」
厳しく言って、シェールを見据える。どうしたら良いかわからず、シェールは恐る恐る視線を返した。
「もっとか?」
言いながら、シェールのお尻に手を回し、ポンと置いた。
「やだ」
一瞬考えた後、兄の意図する意味がわかったのだろう。シェールは懸命に首を振った。
「言葉には気を付けなさい」
「ごめんなさい」
シェールが眠りについた後、タリウスはユリアと共に再び食堂に下り一息着いていた。それがここ最近の、彼らの日課である。
「シェールくん、随分荒れていましたね」
「気持ちはわかりますが、八つ当たりをして良いことにはなりません。厳しいとお思いですか」
「いいえ。タリウス殿の仰るとおりだと思いました。汚い言葉は心をも腐らせます。だから、まるで自分自身が叱られているみたいでした」
「はい?」
ユリアの台詞に耳を疑う。上品な彼女には最も無縁な話だと思った。
「口にしたら敗けだと思うので、実際には言いませんが、心の中ではわりといつも口汚いことを言っていますよ」
「自覚があるのなら、改めれば良い話でしょう」
ユリアの話を聞きながら、苦笑いを返す。
「どうしたらいつもそんなに正しくいられるんですか。疲れませんか」
それは常日頃ユリアが疑問に思っていたことだった。タリウスが生真面目な性格であるということを割り引いても、彼はいつも正しく、小さな弟を導いていた。
「そりゃあ疲れますよ。ただあいつの前では、意識的にきちんとしようと心掛けてはいます。折角あんなに良い子なのに、私が駄目にはしたくない」
「あの、立ち入ったことをお聞きしますが、おふたりはその…」
本当に兄弟ですか、とは流石に聞けない。
「他人ですよ」
口ごもるユリアに、タリウスがさらりと答えた。
「あいつは、不幸な事故で母親を亡くしています。彼女には私も少なからず世話になっていましたので、それで…」
「それで、シェールくんを引き取って育てていらっしゃるのですか」
ユリアの反応は正に信じられないといった風だった。他人の子供を預かり、それも男手ひとつで育てるなど理解出来なかった。
「育てていると言えるかどうか。私は生来、子供はおろか動物にも好かれたことがないのですが、どういうわけか、あいつだけは妙に懐いてくれて。あの笑顔を守ってやりたいと思いました。まあ実際は泣かせてばかりですが」
弟を想って目を細めるタリウスに、ユリアは理屈ではない何かを感じた。
了 2009.9.28 「公徳心」