「ただいま…」

「お、お帰りなさい!」

 自室の戸を開けると、悪戯盛りの少年が明らかに狼狽した様子を見せた。彼はつい最近、
この少年を養子に迎えたばかりである。

「今日はその、はは早かったね、お兄ちゃん」

 しかし、表面上彼らはこれまでどおり義兄弟というスタンスを崩していない。それは互いに話
し合ってのことである。

「一体何をしている!」

 ベッドの上でパタパタとしきりに毛布を仰ぐ姿に、言い様もなく嫌な予感がした。彼は語気を
強め、一直線にベッドへ向かう。一方、シェールは毛布の上に座り、ひたすらなんでもないと
繰り返した。

「ん…?」

 目を凝らすと、毛布から一筋の煙が上がっている。

「わ!」

 そのとき、シェールのすぐ横で小さな炎が上がった。彼は驚いて飛び退き、咄嗟にタリウス
の背に隠れた。

「な!シェール!」

 驚いたのはタリウスとて同じだが、ともかく事態を収拾しなくてはなるまい。手近なクッション
を掴み、毛布を叩く。何度か繰り返すうちに火は勢いをなくし、ほどなくして鎮火した。

 彼はクッションを放り投げ、勢い良く毛布を捲った。ハラリと、紙煙草が床へと落ちた。そこ
で何が行われていたのか一目瞭然である。

「言い訳があるなら、まず聞こうか」

 彼は未だ背中に張り付いたままの悪ガキに冷たく言い放つ。

「えっと…あっ」

 シェールは兄の背中から離れ何か言い掛けるが、床に落ちた吸い殻を見て言葉を失った。

「それをどこで手に入れた?」

「食堂。食堂の隅で箱を見付けて、空かと思ったら一本だけ入ってて、それで…」

 ともかく意図的にくすねてきたわけではないとわかり、わずかだがタリウスの心が軽くなる。

「この国では成人するまで煙草を吸ってはならないことになっているのだが?」

「うん…」

 もちろん知っている。そしてまた、自分が成人と呼ばれるまでには随分間があることについ
てもよく知っていた。

「ついでに、お前には大人の目のないところで火を使うなとも言ってあったが」

 何故だろう。全く言い訳する気にならない。怒鳴られているわけでもないのに、シェールは
顔を上げることが出来ずにいた。

「シェール」

 本音を言えば、窮地に陥った弟の姿をもうしばらく眺めていたかった。だが、生憎そうもい
かない。

「わかっているな」

「はい」

 小さく返事を返し、シェールが顔を上げる。その様子に、タリウスはおもむろにベルトへ手
を掛けた。

「やっ!ヤダヤダ!!お兄ちゃん、やだぁ」

 弟は一瞬にしてその意味を悟る。兄へ取り付き、なんとか阻止しようと懸命に訴えた。

「俺は常々、子供のお仕置きは平手で充分と思っていたが…。どうやらお前は、早く大人に
なりたいようだ」

「いい!僕ずっと子供で良いからっ!」

「そういうわけにはいかない。さあ、ベッドへ手を付け」

 有無を言わさぬ厳しい口調に、自分の意図とは無関係に身体が動く。両腕に手に力が入
り、反対に足のほうがガクガクと震えた。するりとお尻を剥かれるのがわかる。

 タリウスはベルトを二つ折りにし、敢えて音が鳴るよう扱いた。

「ひっ!」

 それだけで、シェールはもう怖くて怖くて堪らない。

「しっかり反省しなさい」

 完全に縮み上がった弟目掛け、ベルトを持つ手を振り下ろした。

「やぁっ!」

 身体にまとわりつくような嫌な痛みが走る。

「うぅ!」

 一呼吸置いて、ベルトは再び小さなお尻を襲う。物理的に拘束されていない以上、その気
になれば逃げ出せそうではあった。だが、そうしなかったのは外でもない、恐怖からである。

「こわっ!もうやぁっ、こわいっ!こわいぃ!」

 数打目にして、シェールはその場に屈み込んでしまう。

 なんだかんだ言っても相手は子供である。いくら手加減しているとはいえ、そう沢山は叩け
ない。それ故、時間をおいてゆっくりとお仕置きを行った。しかし、いつ打たれるかわからな
い恐怖は次第に増幅し、そのことがかえってシェールを追い詰めた。

「こら、まだ終わりじゃない」

「ごめんなさっ。ごめんなさぃ!!」

「自分が悪いことをしたとわかっているんだろう。良いのか、このままで」

 シェールなら必ず自力で立ち上がる筈だ。そう確信した彼は、無理やり腕を取ることはせ
ず、弟が自らの意思で動くのを待った。

「ふぇ…」

 小さな手が涙をぬぐい、その手がベッドへと戻る。タリウスは、ほんの一瞬口角を上げ、
手にしていたベルトをベッドへ放る。シェールが驚いて目でそれを追おうとすると、強い力
で引き戻される。

「痛っ!」

 そして、パンパンという甲高い音が鳴り、お尻に痛みが広がる。

「やぁ!痛いっ」

「まったく、なんて悪い子だ」

 シェールが暴れようとすると、お腹の下に腕を入れられ、しっかりと抱え込まれてしまう。
まだらに色付いたお尻がたちまち真っ赤に染め上がっていく。

「やっ!ごめんなさい!!」

 最後に一際強くお尻を打って、戒めを解く。シェールはわんわん泣いた。

「しばらくこのまま反省していろ」

 タリウスはベルトを掴み、一旦シェールから離れた。シェールはと言えば、ひどく興奮して
いた。怖いのも痛いも終わった筈だが、頭の中は未だ混乱したままだった。

「いたっ!」

 無意識に痛むお尻に手をやったその時、ぴしゃりと手ごと打たれた。

「手は横。ふらふらせずにしっかり立て。いいか、シェール。俺は本気で怒っているんだ。
きちんと出来なければもう一度はじめからやり直すぞ」

「やぁん。ごめんなさい」

 兄の怒りは未だ解けておらず、お仕置きはまだ終わりではない。言われるがままに姿勢
を正し、シェールは涙に暮れた。

 静寂の中、子供の啜り泣きだけが聞こえる。時折、小さな手が目頭を押さえたが、それに
ついては見ないふりをした。

「反省出来たか」

「もうしなぃ…ごめんなさぃ」

 振り返った弟は涙にまみれていて、弱々しく吐かれる台詞は聞くに堪えなくて、これ以上
は咎めようがない。

「よし。もう良い」

 ようやく赦しを得て、シェールは少しだけ冷えたお尻をしまった。両手で涙をぬぐいながら、
遠慮がちに背後の兄を盗み見る。

「良いよ。おいで」

 そんな弟を手招きし、隣へ座らせる。

「まったく、次から次へとよくもまあいろいろとやらかしてくれる」

 小さな背中を擦りながら、掛ける言葉はやわらかい。

「言われなくたってもうわかるだろうが、みんな燃えてしまったら明日からどこへ住むんだ」

「ごめんなさい」

「それに、これはお前と俺だけの問題じゃない。女将に間借りしている以上、みんなに物凄
い迷惑を掛けることになるだろう」

 実際、シーツを焦がしただけとはいえ、今回のことはおいそれと赦される問題ではない。
女将に何と言おうか、先ほどから彼は頭を悩ませていた。

「良いか、二度と勝手に火を使うんじゃない」

「はい」

「それから、何だって煙草に手を出した?」

「だってぇ…」

「だって?」

 口ごもる弟を覗き込んで先を促す。

「大人に…なりたかったんだもん」

「大人に、ねぇ」

 そもそもそう思うこと自体が微笑ましい。だがしかし、思い返せば全く身に覚えがないわけ
でもない。やたらと背伸びしたい年頃も確かにあった。

「気持ちは分からなくもないが、それでもだめなものはだめだ。意地悪で言っているわけで
はない。子供を守るためだ」

「はぁい」

「それで、大人のおやつはおいしかったか」

「ううん、全然。大人になったらおいしいって思う?」

「さあな」

 もとより兄は煙草とは無縁なのだ。それだけに、期せずして発見した煙草の箱に好奇心
をくすぐられた節もあった。

「じゃあお酒はおいしいって思う?」

「思うな」

「僕は…そうは思わなかったけど」

「一体いつ飲んだ?」

 弟はまたしてもとんでもないことを言ってくれる。

「うちにいた時。ちょっとならいいってママが言ってたよ」

「良いわけないだろう」

「でも、ミゼットもたまにはいいんじゃないって言ってたよ」

「だめだ。エレインが良いと言おうが、モリスンさんが何と言おうが、俺がだめと言ったらだ
めだ」

 勘弁してくれ。彼は腹の中で浮世離れした親友コンビを呪う。俄かに頭痛がしてきた。

「どうして?」

「どうしてもだ。それに、お前が大人になって、本当に酒が飲めるようになるのを俺は今か
ら楽しみにしているんだ」

 それは、成長した我が子と酒を酌み交わしたいという思いに加えてもうひとつ。酒豪の母
と下戸の父の間に生まれたこの子に、酒が入ると一体どんな風になるのだろう。冗談抜き
で楽しみにしているのだ。

「いいか、それまで絶対だめだからな」

「わかった」

 三つ子の魂百までも。この誓いが破られる日もそう遠くないかもしれない。


 了 2010.11.7 「三つ子の魂」