最近、弟はそっとすり寄って来ては、自分に背中を預ける。構って欲しいのかと言えば
そうでもなく、本を読んだり、ぼんやりしたり、自分の世界は壊されたくないらしかった。
それならばひとりでいれば良いとも思うが、身体が触れているだけで安心出来るのかも
しれない。初めは弟の態度を不可解に感じていたタリウスも、今ではそう理解していた。

「ママのところに行きたい」

 弟が呟いたのは、そんなときだった。彼はその言葉の意味を図りかね、即座に振り返っ
た。

「だってもうずっと帰ってない。だから…」

 弟は、再び同じ台詞を繰り返す。

「わかった。近いうちに時間を作る」

「うん」

 それきり弟は押し黙った。

 タリウスは苦慮した。これまで一度もシェールを故郷へ連れて行ったことはない。特別準
備せずとも行き来出来る距離にあるにもかかわらず、そうしないのにはそれなりの理由が
あった。

 彼は弟に里心が付くのを恐れた。またそれと同時に、かつて惨劇の起った場所へ赴き、
弟の精神が耐え得るかどうかも不安だった。もし仮に弟が取り乱したとして、自分の手に
負えるか、自信がない。それ故、シェールが言い出さないのを良いことに、あえてこの問題
から目を背けていた。しかし、こうなった以上はきちんと向き合わなければならない。


「シェール。お前のことだ、まず大丈夫だとは思うが…」

 数日後、それまで黙々と荷造りしていた兄が、ふいに手を止めた。

「なあに?」

「教会に行ったら、教父長様の話をよく聞いて、大人しくしていろよ」

「うん、わかった。僕、良い子にしてる」

 考えた末、彼は墓参りの前に教会へ寄ることを思い付いた。教父長は弟が最も信頼を
寄せる人物であり、その弟を引き取るにあたり彼自身も世話になった。正に苦しいときの
神頼みだと思ったが、この際仕方ない。

 実際のところ、日頃彼自身は無神論者で、義務以外で教会へ足を運ぶこともない。自分
の知る限り、旧友も同じ筈だったが、除隊し、子を生した後で宗旨変えをしたとしても不思
議はなかった。

 教会へ着いたのは、朝拝の始まる少し前のことだった。若き教父長は敬虔な信者たちに
囲まれ、切れ目なく話をしていた。そこで、彼らは後方の座席へ並んで腰を下ろした。

 時折懐かしい顔がシェールの名を呼び手を振った。

 しばらくして、説教が始まる。初めのうちは顔を上げ熱心に耳を傾けていた弟だったが、
次第に集中力が切れ、うとうととまどろみ始めた。自分の隣りで居眠りとは良い度胸をして
いる。

「シェール、失礼だろう」

 タリウスは弟の手をはたき小声でたしなめる。

「んん…」

 小さな拳が両目を擦る。弟は周囲を窺い姿勢を正すが、数分後には再びコクリコクリと船
を漕ぎ出した。タリウスはもう一度弟を揺り動かそうとして、その手を止める。今朝は朝拝に
間に合うよう、いつもよりかなり早くに叩き起こした。説教の内容も子供には些か難しい。

 騒がれるよりかは数段良いと思い直し、ここは目をつぶることにした。そのとき、シェール
が一際大きく揺れる。タリウスは弟を支え、自分の膝へともたれさせる。シェールはそのま
ま兄の膝を枕に、すうすうと気持ち良さそうに眠った。

 やがて説教が終わり、信者たちが次々に席を立つ。弟は未だ眠ったままである。教父長
へ視線を移すと、信者たちをやり過ごしながら、通路を進んでくる。

「よくいらっしゃいました」

 そして、一直線にこちらへと歩み寄って来た。

「ご無沙汰しておりま…」

 咄嗟に立ち上がろうとするも、シェールが張り付いていて適わない。彼は慌てて弟を起こ
そうとする。

「構いません。どうかそのままで」

「ですが…」

「いえ、あなたとうまくやっているかどうか聞こうと思っただけですから。全くの愚問でしたね」

 言いながら、彼は膝を付いてシェールの頭をなでる。

「こんなにも幸せそうな寝顔をして。あなたがシェールをどう扱っているか、一目で分かりま
した」

「いえ。シェール、ほら起きなさい」

 そんなつもりで言ったわけではないだろうが、それでもシェールを甘やかしていると思われ
るのは嫌だった。

「う、うん…」

「良い夢がみられましたか?」

「き、教父長様っ!」

 眠い目を擦ると、思いがけない人物が飛び込んで来た。文字通りシェールは飛び起きた。

「久し振りですね、シェール。元気にしていますか」

「は、はい」

「それは何よりです。エレインのところにはもう行きましたか」

「まだ…これからです」

「そうですか、では後でまた寄ってください」

 教父長は微笑み、信者たちの元へと帰って行った。タリウスは一礼し、ついでに未だぼんや
り立ち尽くす弟の頭を強制的に下げさせた。

「行こう」

 彼はシェールの手を取り、礼拝堂を後にした。