「おい、坊主。いつまで寝てやがるんだ」
納屋に向かって声を掛けるが、一向に返事が返されない。
「逃げたか」
業を煮やしてずかずかと踏み込むと、そこは既にものけのからだった。
「ま、無理もねえな」
あれだけ厳しく扱いたのだ。大人だって逃げ出すと思った。それに、こういうことは何も
今回が初めてではない。少しも気にすることはないと、アッシュは自分に言い聞かせ、ぶ
つくさと母屋へと戻った。
「さーて、飯だ飯………あ?」
昨夜は確か流しをそのままにして眠った筈である。しかし、彼が見たのは綺麗に洗われ、
棚に伏せてある食器だった。一体どういうことかと首をひねっていると、店のほうからなに
やら物音が聞こえてきた。
「あ、親方!おはようございます」
「おめ、何やってやがんだ?」
アッシュを見るなりシェールが駆け寄ってくる。額には玉の汗、手にはモップ。辺りを見
回せば、陳列棚も作業台も実によく磨かれていた。
「お掃除」
「それは見りゃわかるけどよ」
そういうことではなくて、何故そんなことをしているのかが知りたかった。自分はひとこと
も命じた覚えはない。
「お菓子のことは自分ひとりじゃ何も出来ないけど、でもこういうことなら僕にも出来る」
宿屋の女将を母に持ち、そしてまた何かと几帳面な兄を持ったことが幸いした。もちろ
ん、彼自身の役に立ちたいという気持ちから出た行動だった。
「おい坊主!」
そのまま床掃除を続行しようとするシェールをアッシュが制す。その声にシェールはピ
クッと首を縮める。何かいけなかっただろうか。
「飯にすんぞ」
「はい!」
「おめえ、飴がどうやって作られるか知ってるか」
食事の後、アッシュはそう言うとシェール連れて店の奥へ入った。
「これが、飴?」
「そうだ。これを冷まして固めて、切って重ねて形を整える。菓子なんて子供の食いもん
だと思っているだろうが、作り出すには結構な力が要る」
グツグツとマグマのごとく煮えたぎる鍋をシェールはおっかなびっくり覗き込んだ。その
鍋の中を時折アッシュがかき混ぜる。
「気をつけろよ。指なんか入れたらあっという間にドロドロになって、一緒に飴になっちま
う」
その言葉にシェールは慌てて手を引っ込めた。それにしても部屋の中は蒸し風呂のよ
うに暑い。その場にいるだけで顔が火照ってきた。直接火を扱っているアッシュはもっと
辛そうに見えた。
「なあ、坊主。何で菓子がおいしいと思う?」
「おいしいもので出来てるから?」
「おいしいと思ってもらえるよう努力している奴がいるからだ」
言われて、ほんの少し親方の手伝いをしただけで、相当な労力だったことを思い出す。
アッシュはあれを毎日、ひとりで全部やっているのだ。そんなことを考えながら、菓子を
食べたことなどないと思った。
それから、昨日と同じく様々な雑用を言い付けられた。だが、今日はあまり叱られず、
どちらかというと菓子に関することをよく教えられた。
「坊主、俺が材料買出しに行って来る間、ひとりで店番出来るか」
アッシュの問い掛けに、シェールは待ってましたとばかりに頷いた。名誉挽回のチャン
スである。
「今度こそちゃんとする!」
「おう。わかんねえことがあったら、すぐに店主が帰るからって言って、待っててもらえ」
ちょっと出て来る、そう言い残し、アッシュはいそいそと出掛けて行った。
「あ」
招かざる客がやってきたのは、アッシュが出掛けてからいくらも経たない頃合だった。
「ねえ、この飴ちょっとだけ…」
「絶対だめ」
昨日の少女である。シェールは是が非でも飴を守ろうと、少女の前に立ちはだかる。
この飴一つ作るのにどれだけの時間と労力が注ぎ込まれているか、それを知った今、
少女の暴挙を許すわけにはいかない。
「あーん!!」
「ちょっと、何で泣くのさ」
突然、しゃがみ込んでわあわあと泣く少女にシェールは面食らった。気のせいか、何だ
か周囲の視線が痛い。
「泣かなくたって良いじゃん。ねえ、泣かないで」
「あの飴、くれる?」
ワタワタして自分を覗き込む少年に、少女はにやりと笑う。嘘泣きだ、シェールは瞬時に
理解する。
「だめ。ちゃんと買ってくれなきゃあげられない」
「っあ…」
「ママに言うよ」
再び泣き喚こうとする少女をシェールが遮る。少女は口を開けたままの状態で固まった。
「昨日のこと、ママに言うから。そしたらきっと、いっぱい怒られる」
「そ、そんなことないもん」
「じゃあ言っても良いんだね。僕のうちなら、絶対お尻ぶたれると思うんだけどな」
少女の顔が引きつる。
「ママを知ってるの?」
「僕は知らないけど、親方なら知ってる」
と思う、シェールは心の中でこっそり付け足す。いよいよもって少女は落ち着かなくなる。
もう一息である。
「そうしようよ、昨日の分のお金も払ってもらえるかもしれないし」
「待って待って!ごめんなさい、もうしない。だから絶対ママには言わないで!!」
いいよ、シェールがそう答えると、少女は大慌てで店から出て行った。
「やったぁ」
店番成功である。
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