アッシュと名乗った菓子屋の店主は、シェールから粗方の事情を聞き仰天した。彼は、
哀れな少年を家へと招き入れ、適当な食事を与えた。
シェールはといえば、アッシュの施しに感謝しつつも、菓子屋だからと言って普段から
菓子三昧というわけではないのだと、いささかがっかりした。
「役場に連れてってやるから、ついて来い」
食事が済むと、アッシュはシェールを伴い家を出た。
「手伝ってくれるひとを、探してるんですか」
店の前に張られた求人にシェールの目が留まる。菓子屋で働けるなんてうらやましいと
思った。
「そう思ったときもあったが、もうどうでも良い」
「どうして?」
「どいつもこいつもすぐに音を上げてやめちまう。楽して金が稼げるならそっちのほうが良
いんだろう」
アッシュはあくびをひとつして、自らの広告を乱暴に剥ぎ取る。それを忌々しげに丸め、
歩みを進めた。
「公安にさっきの話をもう一度して、家へ帰れるよう頼むんだぞ」
アッシュは公安へシェールを送り届けると、自分は無関係だとばかりに早々に退散した。
それから、シェールは言われたとおり、先ほどとほぼ同じような話を繰り返した。違うこと
といったら、盗賊の行き先を聞かれ、馬車の中で聞いたことを答えたくらいだ。それでも
役人はシェールの労を大いに労い、すぐに兄へ連絡すると約束してくれた。
兄の連絡先を聞かれ、咄嗟に中央士官学校だと答えた。そこで、役人の態度が一変した。
王都で盗賊を取り逃がしたのは、どう考えても公安の落ち度である。放っておいてもいず
れは軍に知られることになるが、それを自ら知らしめるのは屈辱以外の何物でもなかった。
有力な情報を提供したのが軍関係者というのも、またいけすかない。
「ご苦労さん。もう帰って良いから」
無表情でそう言われても、帰るところなどあるわけがない。もちろん手紙を読みさえすれば、
すぐにでも兄が迎えに来てくれるだろう。しかし、それまでの間、一体どこでどうすれば良い
のか見当も付かなかった。
だいたい、手紙が届くのにどれほどの時間がかかるのかも分からないのだ。シェールがそ
のことを言いかけると、役人は忙しいの一点張りで、ついには強引に追い返してしまった。
仕方なく彼はとぼとぼと歩き始めた。行くあてはなく、自然と足が向いたのはアッシュの店
だった。
「なんだ坊主、戻ってきたのか」
「今日手紙を出したら、王都に付くのはどのくらいかかりますか?」
「三日から一週間くらいじゃねえか」
「そんなに!それまで、僕どうしたら良いんだろう」
「知らねえよ」
「だって、お兄ちゃんが来てくれるとして、一週間も待っていなきゃいけないなんて」
「おめえは待ってることしか出来ねえのか」
「だって、一人じゃ帰れない」
「良いこと教えてやろうか。王都までは乗合馬車が出てんぞ」
「本当に?で、でもお金がかかるんでしょう」
「そりゃあ商売だかんな。金持ってねえなら、しょうがねえ」
アッシュはだんだん面倒になってくる。
「金はねえ、考えねえ、努力はしねえ。そんな奴のことなんか知るか。俺は忙しいんだ」
こんな商売をしてはいるものの、彼はもともとあまり子供が好かない。自分に追いすがる
子供をシッシッと追い払う。
一方、シェールも必死だった。アッシュに見捨てられたら、それこそ孤立無援だ。何か良
い方法はないかと必死に考えをめぐらせる。
「そうだ!僕をおじさんのお店で働かせてください」
「はぁん?」
突飛な申し出に、思わずずっこけそうになる。
「えーと、商売のことはよくわかんないけど、でもお菓子は大好きだし、一生懸命働くから」
「意味がわからねえ。何でおめえを雇わなきゃならん」
「手伝いの人、探してたでしょ。僕、お金が溜まるまで絶対やめない」
どうやら自分が火を点けてしまったようである。彼は働かせてと懇願する少年を改めて見回
した。小さくて、頼りない、ほんの子供だ。しかし、こんなに必死な目は近頃とんと見ていない。
「お願いします!おじさん」
「おじさんじゃねえ。親方だ」
「え…じゃあ」
「自分から言い出したんだ。簡単に逃げ出すんじゃねえよ」
「はい!」
とはいったものの、今は仕込が忙しくてあれこれ教えている暇はない。考えた挙句、彼は
シェールを店先に立たせた。
「とりあえず店番してろ。客が来て、買うものが決まったら俺を呼べ。任せたからな」
この時間は一応店を開けているものの、実際殆ど客が立ち寄ることはない。それ故、普
段は奥へこもり切りである。こんな子供でも置いておけば、万引きよけ位にはなるかと考え
た。
予想したとおり、至って平和に時が流れた。その間、シェールは店に並んだ菓子をぼんや
りと眺めていた。菓子屋で働くのはやはり楽しい。そんなことを考えていた。
しばらくそうしていると、小さな少女がひとりふらりと店へやってきた。年の頃はシェールよ
りも少し幼いくらいだった。
「いらっしゃい」
シェールは何だか嬉しくなって、張り切って少女を出迎えた。少女はあれこれとお菓子を物
色し、やがて、棒の付いた飴を一本手に取った。
「これ、ちょっとだけちょうだい」
「へ?だ、だめだよ!欲しいならちゃんと買ってって、ちょっと!」
シェールが止めるのも聞かず、少女はおもむろに手にした飴を口へ入れた。シャリシャリと
幸せそうに咀嚼する姿をシェールは呆然と眺めた。
「坊主、お客さんか?」
「こ、これ、もう返す!」
アッシュの声に、少女は食べ掛けの飴を投げ捨て一目散に外へ駆け出した。
「ちょっと、待ってよ!」
「お前、商売物に手付けやがったな!」
床に落ちた飴を一瞥し、アッシュは鬼の形相でシェールを睨みつける。
「違う!僕じゃな…」
「うるせえ!来い!」
必死に釈明しようとするシェールを掴み、ズルズルと奥へ引きずった。
「僕じゃないんだってば」
「うるせえって言ってんだろ!とっとと尻を出しやがれ」
シェールを樽に向かって突き飛ばし、ベルトに手を掛ける。
「や、やだぁ」
「誰が食ったかなんてことは関係ねえ。俺はお前に店を見てろと言ったんだ。だったら、
ちゃんと見てねえお前の責任だ!」
「そんな…」
アッシュはシェールを押さえ付け、衣服をはぎ取ってしまう。小さなお尻が露になる。
「やっ!いたっ!」
背後で鳴るベルトの音と経験したことのない燃えるような痛みに、シェールは気が狂い
そうになった。
「てめえの仕事くらいきちんと果たせ!」
そのとき、聞いたような台詞に記憶が過去へと立ち戻る。前にも一度、決められた仕事
をおざなりにして、無責任だとひどく叱られたことがあった。いい加減な人間になって欲し
くない。あのとき確か兄はこう言った筈である。
「お前を信用して店を任せたんだ。何で他人事なんだ!」
「ごめんなさい」
成長しない自分が情けなくなる。シェールは抵抗するを止めた。恐怖にガチガチと歯が
鳴った。
「いつまで泣いてやがる!やることはごまんとあるんだ」
アッシュの怒鳴り声で、我に返る。恐る恐るお尻に触ると、みみず腫れが浮き上っていた。
下着を直しただけでも叫びそうになるくらい痛かった。しかし、そんな暇はない。
「そこの箱をみんな持って来い。早く!」
「はい!」
痛むお尻を引きずるようにして、シェールは立ち上がる。言われたとおり、ぎっしりと菓子
の詰まった板重を持ち上げようとする。ところが、これが見た目よりずっと重い。
「ぐずぐずするな!腰を入れて持つんだ」
そう言われても、じんじんと痛むお尻を庇いながら簡単に出来る芸当ではない。
「叩かれなきゃ出来ねえのか!それとも、もうやめるか?」
「や、やめません!!」
意地の悪い台詞をはね付け、その勢いで板重を掴み上げる。一旦持ち上がればこちらの
ものだ。よろけながらも、なんとか親方の元まで運び終える。
「おーし!次!」
それから板重を持って何往復もさせられ、それが終われば出来上がった菓子を選り分け、
瓶に詰めする作業に掛かる。今日ばかりは、山のような菓子を前に喜ぶどころか吐き気が
した。
夕方になり、俄かに店内が混雑する。シェールが好奇心から顔を覗かせると、奥へ連れて
いかれ、またしてもひどく叱られた。
「泣き顔で客の前へ出るな。菓子がまずくなるだろう」
涙が乾く前に、立て続けに泣きたくなるようなことが起こるのだから仕方がない。
「絶対絶対帰るんだもん」
逃げ出したくなる気持ちを、帰りたいその一心でどうにか押し止どめる。
店仕舞いをした後も、まるで無関係に働かされた。炊事場から漂ってくる旨そうな匂いに、
やっと夕飯かと胸をなで下ろす。だが、待てど暮らせどアッシュが自分を呼びに来ることは
なかった。
「おい、その辺で終わらせてそろそろ寝ろや」
「へっ?」
アッシュの言葉に耳を疑う。空腹でもうふらふらだった。
「大して働きもしねえで、飯だけ一人前に食おうってのか」
「だって!」
「別に飯食わせたって良いが、さっきの分は給料から差し引くぜ」
「えーっ!」
それは困る。自分の給料がいくらなのかよくわからなかったが、もらえるお金が減れば
それだけ兄の元へ帰るのが遅くなる。
「夕飯は、いらない…です」
苦渋の決断だった。
アッシュは一瞬好奇の目を向けたが、すぐに背を返した。
「ここがお前の寝床だ。好きに使って良いぞ」
そう言って案内された場所は納屋のようなところで、とても寝床とは言いがたかった。
しかし、文句など言えよう筈もなく、彼は古い絨毯を広げて、床へ敷いた。昨日よりマシ
だと自分に言い聞かせながら。
床へ腹ばいになりながら、三度三度食事にありつけることも、暖かな毛布で眠れること
も、当たり前のことではなかったと知った。
「お兄ちゃん怒ってるかな。そりゃあ怒るよね…」
痛みのぶり返したお尻を擦りながら、シェールはぼんやりと兄のことを考えていた。
「坊主、起きてるか」
アッシュの声に現実へと引き戻される。この上まだ働かされるのか、そう思ったら泣き
そうになった。
「お前、まさか初めて尻を叩かれたのか」
未だ涙を浮かべお尻を擦るその姿に、ひょっとしてひょっとするかと思った。
「違う。悪いことしたら、うちでもお兄ちゃんに叩かれてた」
「そうか。家へ帰ったら、やさしい兄ちゃんに精々孝行するこったな」
「うん」
つい先刻まで、兄ほど怖い人間はいないと思っていた。実際、兄のお仕置きも厳しかっ
たが、それでも道具を使われることはなかったし、ひどくされた後には手当てをされ、何
より事後には充分な休養が与えられた。今日のように、腫れ上がったお尻を擦りながら
こき使われることなど皆無だった。
「これ、お前の分だ」
「でも」
突然目の前に小さなカップが現われた。
「食わなくてもすぐには死なねえが、飲まないと弱っちまうからな」
アッシュは言い訳がましくそう言うと、無理やりシェールにカップを握らせる。そして、
早々に引き上げて行った。
「ありがとうございます、親方!」
シェールは慌ててその後を追い、背中目掛けて叫んだ。アッシュは気怠そうに右手を
挙げ、それに答えた。
野菜の切れ端が浮かんだスープを、シェールは噛みしめるようにして飲んだ。身体が
温まると、不思議と心も満たされた。それからすぐに、彼は眠りについた。
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