授業を終えた後、そのままユリアは帰路についた。統括も主任教官も、誰も自分を呼びは
しなかった。彼女は猛烈な疲れをおぼえ、自室に辿り着くや否や昏々と眠った。次に目を覚
ましたのは、その日の夜遅くのことだった。咽の渇きをおぼえ階下へ降りると、帰宅したば
かりのタリウスに遭遇した。
「お疲れ様…です」
なんとなく話す言葉がぎこちない。こんな時間まで仕事に追われていたのは、自分のせい
だろうか。
「あなたのほうこそ、大変な一日でしたね」
「とんでもないです。あの、父は?」
「安心してください。無事お帰りになりましたから」
その言葉に彼女はほっと胸をなでおろす。まだ話していたいが、ここでは声が響く。そう思っ
て躊躇っていると、意外なことにタリウスのほうから少し時間を作って欲しい良いかと言われた。
ふたりは必然的にユリアの居室へ向かった。
「あなたには驚かされてばかりですよ」
ある日突然、隣人が同僚になった日のことが頭を過った。
「私がリードソンの娘だったり?」
「それもそうですが、それよりも、あなたがあんなことをするとは思わなかった」
正直なところ、彼女が師団長という高位の軍人を父に持っていることよりも、その父に対して
とった不作法な振る舞いのほうがより衝撃的だった。
「私、悪くないです」
「は?」
想定外の言葉に思わず耳を疑う。
「だって、そうでしょう。どう考えたって、お父さまがいけないんです」
「ユリア。確かにお父上のほうも、少々意地悪が過ぎたようだとは伺いました。だけど、それに
したって、全くあなたに非がないわけではないでしょう」
今更何を言わすのかと呆れた。
「いいえ、私は悪くありません」
「本気で言っているんですか」
「もちろんです」
「よくわかりました」
言うが早い、ユリアの手を捉え、次の瞬間には膝へ組み伏せてしまう。
「いやっ!何するんですか?!」
「こうでもしないとわからないのでしょう」
「やめて、タリウス!私が悪いんじゃないもの!!」
「そんなことを言っているうちはやめませんよ」
あっという間にむき出しにしてしまったお尻を、タリウスがピシャリと打ち据える。
「いたっ!!」
最初からほぼ手加減なしで打った。そうすれば、すぐに音を上げると思った。
「あなたが頭に来た気持ちはわかります。だけど、感情に任せてお茶を浴びせるなんて、どう
考えたってしてはいけないことでしょう」
「そんなに熱くはなかったし、お父さまだって傷ついたのはプライドだけみたいですよ?」
「それがだめだと言っているんです」
「いたっ!」
「あれがあなたの自宅や、百歩譲ってここならともかく、統括の執務室ですよ。時と場所を弁
えなさい」
「生きているだけで恥さらしなら、何をしたって同じじゃないですか。今までどれほど私が我慢
してきたと思っていらっしゃるのですか?!」
「だったらあなたは、自分で自分の価値を貶めようと言うんですか。人からどうこう言われる
以前に、あなた自身もそんな自分で良いわけですね」
そもそも言っていることが無茶苦茶なのだ。これ以上は反論で出来ない。彼女はだんまりを
決め込むより他なかった。
「ユリア!」
強く名前を呼ばれようとも、お尻を痛くされようとも、彼女は唇を噛んで必死に無言の抵抗を
試みる。そこで、タリウスは痛みを散らすのを止め、お尻の片側だけを続けて打った。
「っ!」
局所的に襲ってくる激しい痛みに、両足を蹴り上げ、上半身を浮かせ抵抗する。だが、それ
ももう限界だ、そう思って降参しようとしたところで、お尻を打つ手が止まった。
「意外に頑固ですね。驚きました」
半ば感心したような言い方だった。ユリアを膝に乗せたまま、タリウスが不自然な動きをする。
引き出しを漁っているのだと気付いた頃には、時既に遅かった。
「止むを得ませんね」
「い、いや!やめて!お願………いったーい!!」
正に星の出る痛さだった。タリウスの手にはいつかのヘアブラシがしっかりと握られている。
そのまま、二度三度と手を振り下ろす。その都度、ユリアが苦痛に声を上げた。
「何か言うことはありますか」
「…ごめん…なさい」
数秒間悩んだ挙句、彼女は意地とプライドの残りかすを捨てた。
「反省はしました。でも!後悔はしていません」
「結構」
タリウスは声を殺して笑った。そして、ユリアの着衣を直し、抱き起こす。
「まったく大した人だ」
涙にまみれた頬をやさしくなでる。そんなタリウスをユリアが睨みつける。
「ひどい。あんなに叩かなくたって良いのに」
「意地を張るからでしょう」
「だって!」
「まだやりますか」
「いいえ、もう充分です」
へなへなと座り込むユリアを、おいでとタリウスが呼んだ。
「でも」
「良いから、ここへおいで」
ユリアを抱き上げ、自分の膝へ座らせる。
「恥ずかしいです、こんな…子供みたい」
言いながら、ついさっきまでここで大暴れしたことを思い出す。彼女は火照った頬を両手
で覆った。
「初めてですか、親子喧嘩は」
「あれって、親子喧嘩だったのでしょうか」
「そうだと思いますよ」
今の今までそんなふうには思っていなかった。その一言で、ずっと心が軽くなったような
気がした。
「本当は、私が口をはさむことではなかったんですけどね」
武骨な手がそっと髪をなでた。何だかそれがとても心地好くて、身体から力が抜けてい
くのがわかった。
「もっと」
「ん?」
「もっとなでてください」
はいはい、と言われたとおり丁寧に髪をなでてやる。
「私、シェールくんのことを可愛がるあなたが、とても好きでした。やさしくて、あたたかくて、
ずっと見ていたいと思いました」
「あなたもそうされたいと?」
「いえ。私自身、あなたの娘とか妹になりたいとは思わなくて。それなのに気付けば頼って
いて、甘えてばかりで…。自律できないんです」
「それはそれで、良いですよ」
「本当に?」
彼女は嬉しくなって、背後のタリウスを振り返る。
「前にも言ったとおり、出来れば対等でいたい。だけど、あなたが落ち着くまで、保護者役
を引き受けても良いと思いました。シェールは誰にでも尻尾を振るが、あなたはそうではな
いようだから」
「どういう、意味ですか」
「兵舎にいる時のあなたは、凛としていて滅多に揺るがない。そんなあなたが子供のように
屁理屈を言ったり、こうして私にだけ甘えてくれるのなら、それはむしろ光栄だ」
タリウスの言葉に耳まで真っ赤になる。
「良い子に出来ないのなら、またいつでもお仕置きして差し上げますよ」
「良いです、しばらくは要らないです」
追い打ちを掛けられ、恥ずかしくてタリウスを正視出来なかった。
「それから、人の話は最後まで聞いたほうが良い」
「何の話でしたっけ」
「お父上は、あなたに仕事の世話をしようと思っていらしたみたいですよ。働くなら、もう少
しマシなところで働いて欲しいと思っておいでだった」
信じられない思いでいっぱいになる。自身のやることなすこと、すべてを父は否定してい
るとばかり思っていた。
「いつかは仲直り出来ると良いが」
「努力…します」
「あなたは、とても良い子だ」
後ろからぎゅっと抱きすくめられて、彼女はこの上なく幸福な安らぎを得た。
了 2010.8.24 「Complex? Complex!」