「庶子なんです」

 ポツリ、ユリアが呟く。

「10歳の頃に母が亡くなって、その後は父の、リードソンの元で育ちました。義母も兄弟も、
もちろん父も、誰ひとりとして私を歓迎してはいませんでした。それは私自身も同じです。

だから、何故誰も望んでいないのに、私はここにいる必要があるのかと父に問いました。
そのとき父は答えました。これは義務だと。そして、私にも義務を果たすよう言いました。
私の義務は、従順な良い子でいること」

 ユリアはそこで言葉を切った。向いに座った同僚を見ると、黙ってうなづき返された。先
を促された気がして、彼女は喋り続けた。

「父の家に居場所はありませんでした。だけど、昔から好奇心旺盛だったので、暇さえあれ
ば勉強していました。誰にも文句を言われることはなかったし、もしかしたら認めてもらえる
かもしれないというおもいもありました。

実際、進学することが許され、中央に出ていた何年間は父の元を離れられたわけですし、
結果的に正しい選択をしたのだと思います。学校を卒業した後は、働きたいと思いました
けど、そんなことが許されるわけもなくて。家へ帰った私を待っていたのは見合い話でした。
結婚するのが嫌だったというよりか、また籠の鳥に戻るのが嫌で、それで…」

「それで?」

「逃げてきちゃったんです」

「ひとりでここまで来るのは、大変だったでしょう」

 リードソン家は西域の名家だと記憶していた。学校を出たばかりの娘が、よくも辿り着け
たものだと、驚くとともに感心した。

「世間知らずの娘でしたから。それがどれほど大変なことか、わからなかったんです」

 そう言って笑うユリアを見て、深窓の令嬢の底力を知った気がした。

「それから…先日ここへアルウィン=リードソンという男が来たと思いますが、あれは私の
兄でして。あの兄が手を貸してくれたんです」

「手を貸したって。ちょっと待ってください」

 アルウィンと血縁関係にあることは理解出来た。だが、問題はそこではない。彼女はさら
りととんでもないことを言ってのけた気がした。

「兄上は、知っていて止めなかったんですか?」

「ええ。なけなしのお金を握らせて、倍にして返せと送り出してくれました」

「理解出来ない」

 妹のためを思うなら、まずその身の安全を第一に考えるべきではないのだろうか。何か
あったら悔やんでも悔やみ切れない、自分ならそう思う。

「普通はそうでしょうね。ただあのとき兄は、このまま放っておいたら私が自殺しかねない
と思ったらしいのです。そんな勇気は、あったんだかなかったんだか」

 そこには、笑い事ではない事情があったのだろう。彼女の兄にとって、それは苦渋の選
択だったのかもしれない。

「それ以来ずっと、お父上には会っていなかったのですか」

「ええ。ただ、兄はともかく、父は私の居場所を嗅ぎ当てていたと思います。統括がどうこう
というわけではなくて、とっくに調べは付いていた筈です。今日来たのは、兄にせっつかれ
でもしたのでしょう。ただ、今更何をしに来たのかがわからないんです。あのままもう少し
良い子に聞いていれば、わかったでしょうか」

「何だったら今から聞いてきたらどうですか」

 意地悪く言うと、とんでもないとユリアが手を振る。

「そんなの嫌です」

 その様子にもう大丈夫だと確信した。

「だったら、今日はもうお帰りください」

「それもだめです」

「何故?」

「これから予科生の授業があります」

「まさかこんな状況で授業をしようというわけでは…」

「しますよ。仕事ですから」

 軽く伸びをして席を立つ。ぽきぽきと身体を鳴らすユリアを見て、その強さに恐れをなし
た。

「予科生と言えば、くだんの兄がバルマーのおぼちゃまのことをすっかり気に入ったようで
した。自信家の兄にとって、自分が中央の出でないことが唯一のコンプレックスだったらし
いのですが、何でも彼に一蹴されたとかで。本当、滅多に人の話を聞かない人なのに。
遭難しかかったのを救われたと言っていたから、そのせいかしら」

「お願いですから、その話をミルズ先生の前でしないでください」

 あの後、アルウィンを伴い視察を行ったが、結局当初の失態を取り返すことは出来ず、
上官はそれはもう目に見えて不機嫌になった。本科生に至っては、未だに昼休みをも取
り上げられている始末である。

「あらら」

 ユリアは利き手を口に当てた。


 教室へ行くと、生徒たちが不思議そうに見上げてきた。

「今日は自習だと聞きましたが」

「連絡の行き違いでしょう」

 彼女は何事もなかったかのように教科書を開き、淡々と板書を始めた。だが、授業も終盤
に差し掛かってから異変は起きた。

 廊下に響く複数の長靴の音に、過剰に反応したのは何も生徒たちばかりではない。彼女は
必死に平生を保とうとするが、チョークを持つ手は震え、音読する声は上ずった。教室の前
でぴたりと足音が止まる。敢えて見ないようにするが、それでも招かざる客たちは視界に入っ
てくる。

「ミス・シンフォリスティ」

「はい?」

 幼い声に呼ばれ、視線を上げる。

「綴り字が…違います」

 すまなそうそう言う声に、彼女ははっとなる。今は授業中であり、仕事中である。私情を
挿む余地などないのだ。私は私だ。先ほどタリウスに言われた言葉を、胸の中で呪文の
ように繰り返した。

「あら、ごめんなさい」

 小さく微笑んで、指摘された部分を直す。その行為が自身に冷静さを呼び戻した。こち
らに構うことなく、客人は教室の奥へと入り込み、丁度彼女の正面に立った。

「切りが良いので、教科書はここまでにします」

 チョークを置き、生徒たちのほうへ向き直る。

「皆さんは今、来るべき将来に備え、日夜厳しい訓練に励まれていることと思います。その間、
幾度となく様々な壁に行き当たるでしょう。越えられない壁はない、そう思っているひとも多い
と思います。ですが、私はそうは思いません」

 生徒たちの表情が変わる。彼女の言っていることは、教官たちの教えに真っ向から対立す
るもののように思えた。

「例えば、あまり足が速くない人がいたとします。もし、この人が変わりたいと思えば、もちろん
限界はあるにせよ、努力を重ねさえすればある程度は自ら変えることが出来ると思います。
そういう壁は、是非越えていただきたいと思います。

 ですが、世の中には自分の努力ではどうにもならない壁が確かに存在します。もし、私が男
になりたいと言ったとして、それは実現可能でしょうか。言うまでもなく、不可能ですね。同じ
ように、人は自分の生まれを変えることはできません。ちなみに私は、生粋のアステリカ人で
はありません」

 生徒たちの息を呑む音が聞こえる。異国人との婚姻は、違法ではないが推奨されていない。
ましてやその子供ともなれば、隠してしかりだった。

「アステリカ人の父と異国人の母の間に生まれたからです。ですが、私はそのことを恥じたこ
とはありません。出自や家柄、育ちと言った壁は越える必要もなければ、壊す必要もありませ
ん。そこを通らなければ良いだけの話です。壁に行き当たったら、それが真に越えるべきもの
かどうか、まず見極めるだけの力をつけてください」

 教室内がしんと静まり返る。そして、静寂を破る不機嫌な声。

「たかが教養の教師が、精神論を垂れるとは馬鹿げている」

 父の目を真っ向から見つめ返すのは、これが初めてかもしれなかった。

「馬鹿げてはいるが、間違ってはおらん」

 憮然とした表情で一言言うと、父は取り巻きを連れて退出して行った。

「勝っ…た?」

 口の中で呟き、ユリアはその場へへたり込んだ。

「先生!!」

 真っ先に自分へ駆け寄ってきたのは、バルマーのおぼっちゃまこと、アルベリックであった。