「御機嫌よう、ユリア」

「お兄さま!何でこんなところに?!」

 客人を見るなり、彼女は持っていたティーセットを盆ごと落としそうになった。

「別にお前のご機嫌を伺いにきたわけじゃない。仕事だ」

 ゼインを盗み見る限り、どうやらそれは本当らしかった。

「お前のほうこそ、こんなところで何をやっているんだ」

「し、仕事です。私も」

「仕事ぉ?軍人とは結婚したくないとか言って家を飛び出したくせに、何だってこんな軍人
生産工場みたいなところで働いているんだ」

「それは…さあ、何ででしょう」

 素頓狂な声に自身の秘密をあっさり暴露され、もはやどうしたら良いかわからなかった。

「相変わらず訳がわからない奴だな。お前ごときに門前払いされた奴等に、申し訳ないと
思わないのか」

「申し訳ないという気持ちだけで結婚するほうが、ずっと申し訳ないと思います」

「それはまあ一理あるな」

 アルウィンは空を仰ぎ、顎をなでる。

「だいたい、お兄さまだって、あいつはだめだこいつはだめだって、一緒になって追い返し
たじゃないですか」

「そ、それはだな。自分の身内になる男だ。当然の権利だろう」

「そういうものですか?」

「そういうものだ。そもそもお前は…」

 尚も話し続けようとする兄妹を、咳払いが割って入る。

「そろそろ良いだろうか」

 ゼインである。先ほどから目に入っていたものの、その実見ていなかった。

「失礼」

「失礼いたしました」

 ユリアは一瞬考えた後、客人を素通りし、先にゼインへカップを差し出そうとする。

「今日は兄上ではなく、お客様だ」

 こら、と小声でたしなめられ、彼女は涼しい顔でアルウィンの前にカップを置いた。

「格別だ」

 カップを手に、上機嫌になる兄を見てユリアは複雑な気持ちで一杯になった。


 あの日以来、ユリアは憂鬱だった。自分の知らないところで、確実に何かが変化していく
ように思えてならなかった。

「ミス・シンフォリスティはいらっしゃいますか」

 教官室の戸口から自分を呼ぶ声がする。

「はい」

 立ち上がって入口へ向かうと、候補生がひとり起立していた。どうやら週番のようである。

「統括室へお越しください」

「何かしら」

 冷静な声音とは裏腹に心の中は嵐が吹き荒れるようだった。

「わかりません。自分はただ、ミルズ先生から、ミス・シンフォリスティを統括のところへお
連れするよう言われただけで」

「お連れする?行くようにではなく、私を連れて来るようあなたに指示を出したのですね」

「はい、そうですが」

 少年にはその差が理解出来ない。

「わかりました。少し待っていてください」

 自席に戻ったユリアは、これまで見たことがないほど険しい表情をしていた。彼女は引き
出しから手鏡を取り出し、髪の乱れを整え始めた。

「どうしました」

 尋常でないその様子に、思わずタリウスが声を掛けたくらいだ。

「統括に呼ばれました。主任先生が、私を連れてくるよう週番に命じたんです。私に用があ
るなら、私に来るようおっしゃれば良いのに」

「ミス・シンフォリスティ?」

「これでは、逃げられないじゃない!」

 振り上げた手は、鏡をも叩き割る勢いだった。

「落ち着いてください。どうしたというんですか」

 彼女の細腕を空中で捕らえる。事情はわからないが、それでも目の前で彼女が血まみれ
になるのを見たくはなかった。

「統括室まで、付き合ってくださいませんでしょうか」

 ユリアはいくらか落ち着きを取り戻したようだった。

「それは出来ない。呼ばれたのはあなたであって私ではない」

「扉の前までて良いんです。少なくともそこまでは私がいたと言ってくだされば」

 そこで、ようやく合点がいった。いかにも上官が考えそうなことだと思った。命令を受けて
いるのはあくまでも週番なのだ。したがって、彼女が行くことを拒めば罰せられるのは週番
ということになる。無論、慈悲深い彼女がそんなことをする筈がないと見込んでのことである。

「わかりました。一体何が始まるのですか」

「そう遠くない将来、おわかりになると思います」

 その言葉を最後に、ふたりは席を立った。そして、戸口に控えていた週番を、自分が代わ
るからとタリウスが下がらせた。


「ジョージア、丁度良いところに来た。すっかりお茶が冷めてしまってね。いれ直せ」

 執務室の前では、ゼインが待ち構えていた。すべてお見通しと言わんばかりだった。

「お茶なら私が…」

「今のあなたにそんなことはさせられない。ユリア=グロリア=リードソン嬢、お父上がお
待ちです」

 覚悟を決めるより他ないようだった。タリウスはどんな顔をしているのだろう。場違いな不
安が彼女の心に生まれた。

「ユリア、急に呼び付けたりしてすまなかったな」

 明るく朗らかな声が彼女を迎えた。

「いいえ、おじさま」

「さあさあ、こちらへ掛けなさい」

 統括が自分の隣りを指差す。向かいからは刺すような視線が注がれた。

「お父さま…」

「とんだ恥さらしだ」

 久方振りに会った父は、記憶の中と少しも違わなかった。たった一言、父の放った言葉に
彼女は凍り付いた。

「育ててやった恩も忘れ、生恥をさらしおって」

 憎々しげに自分を見下げる父を前に、成す術がなかった。

「言いたいことがあるなら言ったらどうだ」

 呆然とするばかりの娘に苛立ちが募る。

「お前ごときのために、貴重な時間を割いてやっているのがわからないのか」

 もとより自分が望んだことではない。しかし、それならば、この際長年疑問に思っていた
ことを確かめ、それですべて終わろうと思った。

「お父さまにとって…。お父さまにとっては、私の存在自体が恥なのでしょうか」

「ふん。それがわかっているなら、もう少しマシな行いをしたらどうだ」

 父は笑った。つられて笑うことなど到底出来なかった。

「聞いているのか、ユ…!」

 そこで、唐突に言葉が切れた。

「だ、大丈夫か!?おいミルズ!!」

 上官の声を聞くより早く、ゼインは隣室へ駆け込んだ。

 入れ違いに、お茶のお代わりを持ったタリウスが入室する。目の前に広がった光景に彼
は言葉を失う。客人の頭上から滴り落ちる水滴と、ユリアの手に残った空のティーカップが、
すべてを物語っていた。

「これ以上お話しすることはありません」

 ユリアは優雅な所作でソーサーにカップを置くと、くるりと踵を返した。

「ジョージア、彼女を追え!目を離すな」

 再び戻ったゼインが部下に指示を与え、自身はナプキンを持って客人の元へ走った。

 戸口までは早足で、執務室を出てからは駆け出した。不思議と涙は出てこなかった。
とんでもないことをしたと頭ではわかっていたが、それがどうしたとせせら笑う自分もいた。

 階段を降りかけたところで、背中から腕を取られた。

「待ってください」

「嫌です。あなたには関係ないことの筈です!」

 タリウスに見られたという事実が現実のものとなって襲ってきた。

「良いから、一緒に来てください」

「いやっ!放して!!」

「来なさい!!」

 ユリアの目が恐怖に怯える。初めてタリウスのことを本気で恐いと思った。

 一喝して大人しくなったユリアを伴い、タリウスは元来た道を戻った。しかし、統括室
へは入らずにその手前で曲がる。

 彼は持っていた鍵で、手近な部屋を開けた。彼女自身は一度も使ったことはないが、
確か教材その他が押し込まれている倉庫のようなところだったと記憶していた。

「すみません、怖がらせたりして」

「い、いえ」

 てっきり父の前に引きずり出されるものと思った。何だか気が抜けて、途端に頭がくら
くらしてきた。

「大丈夫ですか?ほら、座って」

 ユリアに手を貸し、部屋の隅にある椅子へ座らせる。

「水でも持ってきましょうか」

「いいえ、結構です。何も要りません」

 言いながら、タリウスの手にすがった。

「何も要らないから、ここにいてください」

「仕事中です」

 空いたほうの手で彼女の手を退けようとする。だが、なかなか外れてくれない。

「ミス・シンフォリスティ」

「まだ、そう呼んでくれるのですか」

 彼女は純粋に驚いた。

「あなたは、あなただ」

「タリウス」

 自然と涙があふれ出した。目頭を押さえようと、彼女はタリウスを解放した。

「しばらくは、ここにいますから」

 苦笑いをひとつして、彼女の向かいに腰を下ろした。