その夜、ユリアは食事に降りて来なかった。女将に何かあったのかと問われたが、知らない
と 答えるよりほかなかった。

 シェールを寝かし、一息吐いて隣りの住人におもいを馳せる。

 思えば、自分が知る限り、彼女が仕事中にミスらしいミスをしたことはなかった。それどころ
か、 保守的で万年同じような仕事に追われる教官たちに代わり、随所で業務の効率化や整
理を行 なってきた。皆が彼女に一目置いている。

 それだけに、今回の失態がこたえているのだろうと思った。

「ユリア」

 結局、放って置くことが出来ずに、彼は戸越に声を掛けた。

「ユリア?」

 しかし、返答がない。部屋にいることが確かなだけに、俄かに不安になる。

「大丈夫ですか」

 しつこく話し掛けると、ややあってそっと戸が開かれる。彼女の泣き腫らした赤い目を見て、
息 を飲んだ。

「何でしょうか」

「私でお手伝い出来ることがあれば、しますよ」

 ユリアは探るような視線を向ける。

「無理にとは言いませんが」

「いえ、どうぞ」

 タリウスを招き入れ、向かい合って座った。

「私、何のために存在しているのでしょうか」

「何もそんなに思いつめることはないでしょう」

 すっかり元気をなくしたユリアをやさしく諭す。

「人間誰しも間違えはあります。失敗を糧にいかに学習して、次へ生かすか。そちらのほうが
ずっと大切だとは思いませんか」

「それはわかります。わかりますけど、でも」

 これでは堂々巡りである。

「どうすれば、先へ進むことができますか」

「叱られたい、です」

 涙に濡れた瞳が遠慮がちに自分を見つめる。

 そうくるだろうと予測はしていた。だが、何故自分がと思う気持ちもあった。彼女は友人であ
り、同僚である。頼りにされるのは構わないが、自分が優位に立つ意味がわからなかった。

 ただそれ以上に、打ちひしがれ、迷子のようになった彼女を見るのはとても心苦しかった。

「わかりました」

 溜息をひとつ吐いて、目を閉じる。

「立ちなさい」

 声音が一変する。

 ユリアは落ち着かない様子で、目の前に座ったタリウスを盗み見た。

「何故こんなことになったと思いますか」

 静かな中にも確固たる厳しさを感じた。緊張に表情が強張る。

「私の注意が足りませんでした」

「それから?」

「馴れてしまって、仕事をしているという意識が、もしかしたらその…薄れていたのかもしれ
ません」

「自分のことでしょう」

 他人事のように空を見るユリアを許しはしない。いくらか強い口調で質すと、彼女の視線が
戻って来る。

「意識が、自覚が足りませんでした」

 申し訳ございませんと目を伏せる彼女を見て、既に充分悔いているのがわかる。それだけ
に、 これ以上の説諭は不要だと感じた。

「ところで、始めに聞くべきでしたが」

「はい」

「何故あんなところにレポートを置いていたのですか」

 失くすにしても返し忘れるにしても、些か妙な場所でレポートは発見された。この疑問を解
消 して、それで終わろうと思った。

「それは、その…していたからです」

 唐突にユリアが口ごもる。

「はい?何ですか」

「ですからその…お昼寝を、していたものですから」

「お昼寝って…。まったく、あなたというひとは…」

「ごめんなさい」

 呆れかえるタリウスを前に、項垂れるその姿があまりに情けなくて、思わず吹き出しそうに
なった。そして、同時に彼の中で何かが吹っ切れた。

「ちょっと痛い目に遭いますか」

「え…はい」

 これは人助けだ。そう思ったら、容易に気持ちを切り替えられた。

「ユリア、早くしなさい」

 返事を返したものの、未だ踏ん切りのつかない彼女を小さく叱り、腕を取って自分の膝へと
引き寄せる。一呼吸置いて、スカートの上からお尻を叩いた。ピクッと彼女は体を震わせる。
タリウスはそのまま一定のペースで平手を与え続けた。

「あんなところで呑気にお昼寝とは、良い御身分ですね」

「あそこは滅多に人が来ませんし、それに涼しいので、つい」

「初めてではありませんね」

 彼女の台詞にすぐさま常習犯だと悟る。いくら人が通らないからといって、よくもそんなと
ころで眠れるものだと彼は理解に苦しんだ。

「ごめんなさいっ!」

 叩く手に力を込めると、苦しそうに謝罪が返される。

「あなたが予科生の居眠りに寛容な理由がよくわかりました」

「違っ!そんなつもりは…やっ!イタ!」

 弁明する言葉を遮るように、連続してお尻を叩く。

「いや!いたい!!」

 いかに服の上からといっても、叩いているのはタリウスである。軍人であり、また教官でも
ある彼の平手打ちは、厳しく重い。

「反省しましたか」

「もうしません」

「結構です。では、本題に入りましょう」

「え…?」

 タリウスの言葉に耳を疑う。

「今のはお昼寝をしていた罰です。そもそもあなたは、本科生の宿題を失くしたことを叱られ
た かったのでしょう」

「そうですけど…」

 お尻は既にはれ上がり、ジンジンとひどく痛んだ。

「まさかあの程度の罰で許されると思ったのですか」

 そうです、とはとても言えなかった。

「手で庇ったりしたら初めからやり直しです。良いですね」

「そんな!」

 とてもではないが耐えられる自信がなかった。

「心配なら初めから結わえておきましょうか」

「いいです!ちゃんとします」

 言いながら早くも涙が上がってくる。そして、次の瞬間突然お尻がひやっとした。その気配
に、 着衣を脱がされたとわかる。自然と頬が赤らんできた。

「キャアッ!」

 しかし、そんなことを気にしている余裕はすぐさまなくなった。これまでとは比べ物にならない
激しい痛みが彼女を襲った。

「とんだ怠けものだ。大方、時間を忘れて眠りこけて、取るものも取らずに戻ったのでしょう」

 図星だった。

「結果的にすべてあったし、なくなったところで所詮彼らの宿題です。大して困りはしないでしょ
うが、もしそうでなかったらどうするつもりですか」

「取り返しが、つきません」

 宿題ですら教え子たちに充分迷惑を掛けたのだ。もしも、もっと公的な書類であったのなら
ば、 考えたくなかった。

「もっと気を引き締めないと、今に大怪我しますよ」

「ごめんなさい!」

 赤くなったお尻を、更に色濃く染め上げていく。

「やぁん!ごめんなさい!もう許してください!!」

「だめです。あと少し、我慢しなさい」

 必死の訴えをタリウスは無情にはねつける。もう限界だった。

「こら!」

 無意識にお尻に手をやった。ピシャリとその手を叩かれて、我に帰る。

「手で庇ったらやり直しだと言ったでしょう」

「いや!ごめんなさい、ごめんなさい」

「ユリア」

「ごめんなさい!もう無理です、許してください!お願いします!!」

 泣きながら懇願するユリアに、しょうがないなとタリウス。

「ではあと十回で終わりにします。ただし、この十回は手加減しませんよ」

「はうぅ」

 あれで手加減していたのかと恐ろしくなる。今度抵抗したらそれこそどうなるかわからない。
彼女は目を閉じ、両手を組んだ。

 手を振り上げられる気配に、身体を固くする。

「い…!」

 盛大な音とともにお尻に平手が弾ける。未だヒリヒリと余韻が残る上を更なる平手が打つ。

「いやぁ!もうやぁ!いや!!」

 耐えがたい苦痛に、身を捩って必死の抵抗を試みる。もはや恥じらっている場合ではなかっ
た。 膝の上で無遠慮に暴れるユリアをその度抱え直し、タリウスは最後まで手を抜くことなく
叩き上げた。

「はい、おしまい」

 あまりのことに、そう言われてもすぐには起き上がることが出来ない。下着を直され、その
上 からぽんぽんとお尻をなでられても、それは同じだった。

「まだ足りませんか」

「ちが、います」

 本気で言っているわけではないとわかったが、それでも嫌なものは嫌で、ユリアはのろのろ
と 起き上がった。そして、タリウスを一目見るなり思い出したかのように激しく泣き出した。

「そんなにもう泣かないでださい」

「だって」

 一瞬泣き止みそうになるも、すぐまた嗚咽が再開される。

「まったく、しょうもない人だ」

 はいはいと、弟にしてやるように背中を叩く。その手のあたたかさに言いようのない安堵を
お ぼえた。考えるより先に身体が動く。

「ちょっと」

 驚くタリウスをよそに、その胸へしがみついて、わあわあと泣きじゃくった。彼は腕の中で退
行するユリアに途方に暮れた。 一向に泣き止まないユリアを持て余し、結局落ち着くまで子
供 をあやすようにして背中を擦った。

「呆れ、ましたよね」

「いえ。自分を省みて、成長したいと思うひとは好きですよ」

「でも…」

「ただ、出来ればあなたとは対等でいたかった。それから、あなたを泣かしたくもなかった」

 思ってもいない台詞になんと答えて良いかわからなかった。

「だけど、あなたがあまりにも苦しそうだったから、お役に立てるならそれも良いと思いました」

「タリウス殿」

「殿は要らない」

 目を瞬いて自分を見るユリアに、きっぱりと言い切る。

「前から言おうと思っていたが、なかなか機会がなかった。私はそんなに偉くない。だから、
タリウスで良い」

「タリウス?」

「もちろん、兵舎でそう呼ばれては困りますが」

「それくらい弁えます」

 ユリアが笑う。もう大丈夫だと思った。

「また迷子になりそうになったら、教えてください」

「迷子ですか?」

「道に迷ってどうして良いかわからなくなったときは、一緒に出口を捜しますから。正しく
導けるかどうかはわかりませんし、一緒に迷走することになるかも、しれませんが」

 どんな慰めの言葉をもらうより、ずっと嬉しかった。ずっしりと重かった心が、気付けば
羽のように軽くなっていた。いつの間にか出口へ辿りつけたのだ。

「構いません。あなたが、タリウスがいてくれるのでしたら」

 そう言ってはにかむ横顔はなんとも眩しかった。


 了 2010.7.29 「迷い子の行方」 あとがき?