「ただいま」
「おかえり」
ここのところ仕事が落ち着いたのか、兄の帰宅は早い。そうとわかっていながら、遊びに
夢中になっていてついまた帰りが遅くなった。先日も同じことで注意を受けたばかりである。
流石に咎められると思い、顔を強張らせて兄を見た。
だが、兄はちらりと自分を見たきり、何事もなかったかのように読んでいた本へ視線を戻し
た。これには、思わず泣きそうになった。兄は自分に対して興味がなくなったのだろうか。
食事が済むと、シェールは部屋には戻らずにふらふらとストーブに近付いた。そんな弟の
様子をタリウスは椅子に腰掛けたまま目で追う。
そして次の瞬間、彼は全身から血の気が引くのを感じた。 小さな弟がおもむろにその手
をストーブの口へ入れたのだ。
「シェール!」
タリウスは弾かれたように立ち上がり、弟の首根っこを掴んでストーブから離した。
「一体何のつもりだ!」
弟を睨み付け、思い切り怒鳴りつける。シェールは微動だにしない。ただじっとタリウスを
見つめた。爛れた手のひらが痛々しい。
「来い!」
シェールを捕え、力任せに歩かせる。一直線に炊事場へ向かい、小さな手を掴んで水桶
に入れた。
「痛っ」
そこで初めて、シェールは痛みをおぼえる。ようやく自分が火傷を負った事実がぼんやり
と頭に入ってきた。心臓がどくどくと脈打っていた。
兄は無言で自分の手首を握り、時折その上に水差しから新しい水を注いだ。しばらくそう
していると、ふいに手を離された。
「俺が戻ってくるまで、このまま水につけておけ」
反射的に水から手を出そうとするのを、タリウスが制する。シェールはうなずいて、言われ
たとおり再び水に手を入れた。冷たい水に浸していたせいか、感覚が麻痺して痛みが消え
ていた。
数分後、タリウスは包帯を手に炊事場に現れた。幹部に軟膏を塗布し、その上からくるくる
と器用に包帯を巻いていく。シェールはなされるがまま、手際良く動く兄の手を見ていた。
ひととおり手当てが済む。未だ沈黙している兄を見て、シェールは何か言わなければと思っ
た。
「言い訳があるなら聞こうか」
先に沈黙を破ったのはタリウスの冷たい声だった。
「だって僕、透明に、なっちゃったのかと思ったんだ」
「透明?」
弟の言っている意味が全くわからない。ひょっとして気でもふれたのだろうか。本気で弟の
ことがわからなくなった。彼は冷静になろうと息を吐いた。
「だって、僕が何をしても全然怒らないから、お兄ちゃんには僕が見えないのかと思った。
もしかしたら、透明人間になっちゃったのかもしれないって」
ややあって、「透明人間」がここ最近弟が夢中になっている絵本の話だと思い当たる。
ひょんなことから透明になった主人公が、他人に姿が見えないのを良いことに、数々の悪
戯を企てる。だが、何をしても咎められない代償に、最終的には周囲から完全に孤立してし
まう、確かそんなおちだ。
それにしても、開いた口が塞がらないとはこういうことか。
「透明になんてなってない」
それだけ言うのがやっとだった。シェールは少しだけ安堵した様子だったが、今以て悲しそ
うに自分を見上げた。
「ちゃんと、見えていたよ」
「じゃあどうして?もう僕のことなんてどうでもいいって、思っているの?」
「そうじゃない。いちいち俺に言われなくても、ちゃんと自分で気付いて欲しいと思ったから。
実際、お前だって悪いとわかっていてやっていたのだろう」
確かに、これまで重ねた悪行はどれもこれも悪いことだと知りつつやっていた。今更兄に教
えてもらうことはひとつもない。
「お前のことがどうでも良いなんてもちろん思っていない。
だが、あれこれ口うるさく言うばかり
では、かえってお前を甘やかすことに気付いた。
ただそれを、きちんと説明すべきだった」
額に手をやり、反省しているよと兄。先に謝られてしまい、シェールは身の置き場に困った。
「ごめんなさい。そんなふうに思っているなんてわからなくて、その…」
「俺だって、お前がこんなとんでもないことをしでかすとは、思わなかった」
まだ自分を心配してくれるかどうか試したかった。考えるより先に行動に出てしまった。
「シェール、わかっているな?お前は最低なことをしたんだぞ」
言われなくとも、なんとなくわかっていた。わかっていたからこそ、これをすれば流石に怒ら
れるだろうと踏んだのだ。
「叱られたかったのだろう?」
「別にそういうわけじゃ…」
「どうだか。さあ、こっちへ来い。二度とこんな馬鹿なことをしないよう、教えてやる」
兄は炊事場の隅にあった樽に腰を下ろし、おいでと手招きする。抵抗すれば、無理やり膝
へ乗せられるだろう。無意識に拳を握りしめようとして、鈍い痛みにはっとなる。包帯を巻か
れた手のひらをしげしげと見つめた。
「ごめんなさい」
右手に対して申し訳なく思った。少しも悪くないのに、勝手に痛めつけたりしてかわいそうだ
と思った。本当に悪いのは自分自身だというのに。彼はおずおずと兄の前へ進み出た。
「悪戯をしようが、言い付けを破ろうが、お前が相手ならば最終的には赦す。だけど、今日は
そう簡単には赦さない」
タリウスは膝の上に弟を乗せ、打ちやすいように位置を調整する。身体がぐっと下がり、床
が近付いてくる。ベッドの上と違い、手足が浮いて安定しない。ただでさえ恐ろしい瞬間に、
余計に不安を掻きたてられた。
「ひとつしかない自分の身体を、ないがしろにした罪は重いぞ」
利き手をまくって、むき出しのお尻に思い切り振り下ろす。
「っ!!」
最初の一打を受けて、あまりの痛さに思わず目を見張った。皮膚が焼けるように痛い。
「うあ!いっ…」
思わず違うと叫びそうになる。今まで受けたことのない、重い痛みだった。数回打たれたと
ころで、早くも音を上げそうになる。
悪いのはもちろん自分だとわかっていたが、そんなことは
みんな飛んでしまうくらい、苦痛だった。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
耐え切れなくなって、気付けばそう叫んでいた。
「いやぁ!ごめんなさい!もうや。もういやだぁ!!」
「暴れるな。落ちても知らないぞ」
あらん限りの力で抜け出そうと必死でもがくも、すぐさま元通りの位置へ直されてしまう。
相変わらず、重たい平手は一向に止む気配がない。
「うわあぁん!やだぁ、やあぁ」
床に放り出されようが構わなかった。すぐさま膝へ戻されるにしても、一瞬でも痛みから
逃れられるならば何でも良かった。そう思い懲りずに暴れていると、叩く手が止まった。
「お前は何故こんな目に遭っているんだ」
「自分から、火に手を…」
「それは何故だ?」
「だって、お兄ちゃんが…」
言いかけて口をつぐむ。そもそも先に兄を怒らせたのは自分だ。叱られた腹いせに毒吐
いたのがすべての始まりである。
「ごめんなさい。僕、お兄ちゃんに見て欲しくて」
「何故そうお前は短絡的なんだ。こんなことに身体を張るな」
それならば、他にいくらでも方法がありそうなものだと思った。ストーブに手をかざすだけ
でも充分効果があることを無垢な弟は知らない。
「だって、前みたいに話して欲しかったんだもん。怒られても良いって思った」
「お前を無視していたわけではないだろう?お前のほうが、近寄って来なくなったんじゃないか」
「そんな…」
直に叱られることがない代わりに、その分いつも不機嫌で、近付きがたく見えた。しかし、
言われてみれば、もともと兄は来るものを拒まず去るものを追わない性質である。それ故、
いつもは自分から構われに行っていた。今回そうすることが適わなかったのは何故だろうか。
「後ろめたかったのだろう」
叱られない代わりに、赦されることもない。良心の呵責に耐えきれなかった。
「思う存分、反省すると良い」
少しだけ冷えたお尻に平手打ちを再開する。
「うぅ!」
今日までの分をみんな清算しようと思った。心の中でくすぶっていた負の気持ちを残さず吐き
出して、身軽になりたかった。そう思ったら、目の回るような痛みも、受け入れることが出来る
気がした。
「シェール」
自分を呼ぶ穏やかな声に、お仕置きの終わりを知る。お尻をしまい、ゆっくりと抱き起こす。
ほんの少し身体を動かしただけで、お尻の痛みが戻ってきた。もはや右手の痛みなどないも同
じだった。
「もういいよ」
その台詞を聞いた瞬間、堰を切ったように涙があふれてきた。シェールはうわあっと声をあげ
泣いた。その勢いは留まるところを知らず、お仕置き中のそれを遥かに凌ぐ。
「もう良いから、そんなに泣くんじゃない」
「だって、だって!」
「よしよし、痛かった。よく我慢した」
弟に胸を貸し、腫れあがったお尻をなでる。
「なん、でっ…」
「うん?」
タリウスにしがみつき、何事かを言おうとするがうまく発音できない。背中を擦ってやると、
ひゅうひゅうと息をした。
「なんでか、わかんないけど…。お尻はいたいっ…し、怒られるのやだし、なのに、なんで
だろ。すごく…ほっとした」
涙に濡れた瞳がどうしてと問い掛ける。その様子がどうしようもなく愛しくて、思わず抱き
寄せる。
「それはお前が良い子だからだよ」
「ちっとも、イイコなんかじゃない。やっぱり僕、だめなんだ。お兄ちゃんがいないと、だめ
なんだ」
「間違えたらやり直せば良い。当面は付き合ってやるから。だけど、いつかはひとりで生きて
いかなければならない日が来るから。少しずつ、自分を律することを学びなさい」
腕の中で小さくうなずく弟を見て、いつかは自分も子離れしなければいけないのだと悟る。
弟の成長が楽しみな半面、淋しいことこの上ない。
それならば、せめて今のうちに精々構い倒そう。未だしゃくりあげる弟をなだめながら、
今夜は久しぶりに絵本でも読んでやろうと思った。
了 2010.7.17 「透明人間」