何となく嫌な予感がして、帰宅した彼は真っ先に水差しを覗いた。案の定、殆ど中身が入っ
ていなかった。彼の予想は悲しいまでに的中した。性懲りもなく、弟はまたしても勤めを怠けた
のだ。 もちろんこれまでもうっかり忘れることはあったが、それにしても今日の今日である。
つい数時間前、今後は行いを改めると約束させたばかりだというのに、これは一体どうしたこ
とか。

「水が入っていないようだが」

「あ、忘れてた」

 呑気にそう返す言葉に罪の意識は全くなくて、今朝のことなどまるで覚えていないようだった。

 タリウスがシェールと共に過ごすようになってから、もうかなりの時が経つ。仲良くなればなる
ほど、彼には小さな弟がたまらなく可愛く思えた。今朝のように叱ることもあったが、それでも
無邪気な笑顔が見たくて、無意識に甘やかしてきたのだ。だが、鉄は熱いうちに打たなくては
ならない。冷えて固まってしまってからではどうにもならないと、先ほど実感したばかりである。

「全然反省していないな。俺は約束の守れない、無責任な奴が大嫌いだ」

「い、今すぐ…」

 怒っている。それも、自分が知っている中ではかなりの度合いである。シェールは慌てて水
差しに手を掛ける。

「結構だ。もうお前には頼まない」

「ごめんなさい。ちゃんとするから」

「お前はいつも口ばかりだな」

 騙されてなるものか。ここで赦せばまたすぐ同じことを繰り返すに決まっている。

「あれもこれもとお前に仕事を押し付けているわけではないだろう。そんなに難しいことか」

「ううん、違う」

「だったら何故出来ないんだ」

 あれこれ考えを巡らせるが、これといって理由が思い付かない。

「シェール」

「わからない」

「おいで、一緒に考えよう」

 ベッドへ腰を下ろし、ぽんと膝を叩く。今日は厳しくされる。直感的にそう思い、シェール
は後ずさった。

「いやだ」

「お前に選ぶ権利はない。来なさい」

「や…」

「来なさい!」

 腰を浮かせ、乱暴に腕を取る。既に弟は泣きださんばかりだった。だが、この際、嫌わ
れても構わないと思った。シェールかて何も急激に悪い子になったわけではない。どこま
でなら大丈夫か。少しずつ自分をためしていたに違いない。

「最近お仕置きしていなかったからな。何をしても際限なく赦されると思ったか」

 シェールを膝に乗せるのは久しぶりだった。小さな弟がいつもに増して小さく見えた。

「ごめんなさい」

 恐怖に声が震える。

「何故叱られているのか、よく考えなさい。謝るのはそれからで良い」

 小さなお尻をむき出しにして、すぐさま平手を振り下ろす。パシパシと始めから強く打っ
た。

「やあっ!やだ!やだぁ!」

 しばらくは大人しく我慢していたシェールも、お尻が万遍なく染まるころには、耐えられな
くなってジタバタと暴れながら泣き喚いた。

「もうやだぁ。やめて!やめてぇ」

 逃げられるわけないとわかっていても、繰り返し襲ってくる痛みからなんとか逃れたくて、
懸命に身を捩る。そして、兄を振り返り解放してくれるよう懇願する。だが、無言で身体を
押さえ付けられ元へと戻される。

「やーだぁ!!」

 絶望して、絶叫する。言い付けに従わなかった自分が悪いのはわかるが、それにしても
ここまで厳しく叱られる理由がよくわからない。経験上、兄が本気で自分を怒るのは大概
が生命に関わる何かをしでかしたときと決まっていたからだ。

 なおもぎゃあぎゃあ喚いていると、ふいに叩く手が止まった。

「どんな仕事も、毎日続けるのが大変だというのはよくわかる。特に冬の朝は、辛かった
と思う」

 言われて、真冬の朝には泣かされたと思い出した。暖かな毛布の誘惑に打ち勝ち、部屋
と外を往復するのは、今の何倍も困難だった。だが、毎朝のように兄たちが労いの言葉を
掛けてくれて、そうやって褒められるのが嬉しくて、結局音を上げることなくやり通した。

「あのときは出来て、何故今は出来ない?」

 冬の朝と夕方のそれでは比べるまでもない。一体全体何故だろうか。

「シェール!」

 答えないでいると、ピシャリときつくお尻をぶたれた。間が空いた分、余計に痛い。シェ
ールは必死になって考える。再び手が振り上げられる気配がした。

「違う!」

 突如、シェールが声を上げる。タリウスの手が空中で止まる。

「出来ないんじゃないんだ。本当は出来るのにやらないだけだ。自分でやるって言ったのに、
やらなかった」

 ふたりが一緒に暮らすようになって間もない頃のことだ。与えられるばかりではあまりに肩
身が狭くて、自分も何かしたいとシェールが言い出した。そこで、日に二回部屋で使う水を外
まで取りに行かせることにした。もっとも、弟は宿屋育ちである。他にもよく女将を手伝ってい
たが、兄の手助けとしてはそれが唯一の仕事だった。

「その通りだ。水汲みを忘れたからこんなに怒っているわけではない。約束は守る。自分の
仕事はきちんと果たす。お前にはいい加減な人間になって欲しくはない」

「ごめんなさい。ちゃんとする。ちゃんとするから、だから、捨てないで」

 何故そういう話になるのだろう。先ほども似たような台詞を聞いたが、それとは明らかに
衝撃が違う。

「仕上げをして、おしまいにしよう。あと十回、我慢できるな」

 話がややっこしくなるので、一旦弟の台詞は棚上げにする。小さなお尻は既に赤くはれ上
がっていたが、これで終わりである。最後まで緩めることなく厳しく叩いた。その間、シェール
は身を固くして、必死になって泣くのを堪えていた。

「ごめんなさいっ、ごめんなさい」

「もう良いよ」

 着衣を直し、膝から下ろす。そして、何度も謝罪を繰り返す弟にやさしく声を掛ける。

「もう良いから」

 だが、そんなタリウスの言葉が聞こえないのか、相変わらずシェールはごめんなさいとしか
言わない。よく見ると、両手でしきりにお尻をさすっていた。冷やしてやろうか、そう思って水
差しに目をやり、ないんだと思いだす。シェールがはっとなって水差しに駆け寄る。

「良いよ、今やらなくて」

 言って弟を止めるが、聞く耳持たない。まあいいかとそのまま部屋を出る弟を見送った。

 しばらくして、階段を上る軽い足音に、タリウスが戸を開けてやる。

「お兄ちゃん、おばちゃんが呼んでる」

「何だって?」

「手伝って欲しいって言ってた」

「わかった。それが終わったら、もう好きにしていて良いからな」

 シェールにそう言い残し、部屋を後にする。本当は弟の傍にいたかったのだが、女将を無
視するわけにもいかなかった。

 女将の要件は、高い位置に置いたものをとって欲しいというものだった。すぐさま言われた
とおりにしたが、その後も続けて雑用を頼まれそうになった。いつもならいくらでも付き合うの
だが、今日は勘弁して欲しい。適当に女将をやり過ごし、早々に自室へ戻った。

 彼の小さな弟は、ベッドの上に転がっていた。泣き疲れて眠ったのか、そう思って近付くと
予想に反して目が開いていた。タリウスは頭の横へ腰を下ろすと、そっと髪をなでた。シェー
ルは一瞬ピクリと身を固くしたが、構わずなで続けた。

「お兄ちゃんは僕が嫌いになった?」

 唐突にシェールが呟いた。否定するのは簡単である。弟もそれを望んでいるのだろう。

「シェール、お前は?」

「え?」

 反対に訊き返すと、弟が不思議そうに自分を見上げてくる。

「あんなに痛い、嫌な目に遭わせたたんだ。もう兄ちゃんなんていらないか?」

「いらなくない。そんなこと思わないよ」

「どうして?」

「だって、僕が悪かったんだもん。それに、お仕置きは嫌だけど、でも僕のためにしてくれ
たってわかるから」

 弟の言葉に成長したなと感慨をおぼえる。

「だったら、聞くまでもないだろう」

「でも」

「聞きたい?」

 コクリとうなずき、タリウスを見つめる。

「大好きだよ、シェール。お前を捨てることは絶対ない。もう言わないけど、明日も明後日も
それは変わらないから」

 弟はずりずりと這ってきて、兄の膝に頭をうずめる。その上に大きな手がぽんと置かれた。


 了 2010.6.6 「鉄は熱いうちに」SIDE A