翌朝、タリウスはいつもどおり宿屋を発ち、中央士官学校の正門を潜り抜けた。正規の出仕
時限までにはまだ間がある。

 教官たちの殆どは兵舎へ住み込んでおり、それ故朝礼の時間丁度に出仕するのが常となっ
ている。候補生たちも、特に命令がない限りこの時間は自室で待機しているはずである。そ
のため、この日も彼が一番先にこの場所へ足を踏み入れたはずだった。

「おはようございます」

 だが、そんな彼に何者かが声をかける。

「昨日は大変申し訳ありませんでした」

 タリウスが挨拶を返すより早く、少年、マーティン=サミュエルは深々と頭を下げた。その様
子に、ともあれ第一段階はクリアしたかと彼は安堵する。

「昨日はお忙しい中散々待っていただいたのに、進歩がなくて、本当にダメで、すみませんで
した」

 タリウスは顔を上げるよう教え子へ命じる。

「何のために教官たちがあれこれうるさいことを言うと思う」

「至らないことが、たくさんあるからです」

「至らないことを至るようにするためだ。どうにかしてやりたいと思っているから、言うんだ。
もっと言えば、俺の役目は候補生を指導育成することだ。お前らのために時間を使うのは少
しも惜しくはない」

「先生」

 そんなことを言われるとは微塵も思っていなかった。

「それにしたって、どうせならもう少し建設的なことに時間を使いたい。成長の兆しの見えない
奴に付き合うのは、こちらも苦行だ」

 しかしながら続く言葉にはやはり容赦がない。耳を塞ぎたくなるのをどうにか堪え、教官に向
き直る。

「士官に憧れて、どうしてもなりたくて選抜試験を受けました。周りからは受かるわけないって
言われましたけど、それでも絶対諦めたくなくて」

 一生のうち、後にも先にもこんなに努力したことはない。それこそ寝る間も惜しんで懸命に訓
練を積んだ。両親が軍とは無関係の一般庶民である自分にとって、真っ向から選抜試験に合
格するより外士官になる術はなかった。

「その想いは今どこへ行った?」

「それは…」

 試験に合格した途端に、どこかに置き忘れたとしか考えようがない。そのとき、すべての目
標を達成したと思い込んでしまったのだ。

「お前の合格の裏に、涙を呑んだ奴がいることを考えたことがあるか」

「いいえ」

「候補生になれたからと言って、必ず士官になれると思ったら大間違いだ。たとえ自分の評価
を落とすことになったとしても、俺は今のままのお前を本科生に上げはしない」

 教官の言葉にマーティンは目を伏せた。

「常に志を高く持ち、努力し続けるのは並みのことではない。だが、それを実践するのが士官
であり、出来るようにするのが士官学校だ。努力を怠る人間はここには不要だ」

「せんせ…」

「もう行け。朝礼が始まる」

 結局、赦しを得ることは叶わず、マーティンは肩を落として去って行った。

 翌日、タリウスはいつもより更に早く宿屋を出た。前夜にたっぷり構ってやったこともあり、
小さな弟に引き止められることはなかった。

「おはようございます」

 昨日と同じように、正門を入ったところでマーティンが自分を待ち構えていた。唯一昨日と
違うのは、その手に竹ぼうきが握られていることか。無造作に置かれた袋は既に落ち葉で
いっぱいになっている。一体何時からやっているのだろう。

 そんなことを考えながら、敬礼を返す。そして、黙ってその横を通り過ぎた。

 彼はその足で教官室へ向かった。当直に断り、書庫を開ける。目当ての指導記録を開くと、
その殆どが自分で書いたものだった。ファイルの最後も、二日前に彼自身が書いたもので終
わっている。

 どうやら他の教官に罰掃除を命じられたわけではないようである。そうなると、自発的に行
動していたということになる。こんなことは初めてだった。

 ひとまず様子を見ようと、彼は翌日もまた同じ時刻に出仕した。正門を潜ると、少年は同じ
ように落ち葉を集めていた。

「おはようございます」

「おはよう」

 敬礼を返し少年の横をすり抜ける。

 翌日も、その翌日も同じことが繰り返された。週が新しくなっても、それは変わらなかった。

「おはようございます」

「おはよう」

「あの、先生」

 いつものように少年の横を通り過ぎようとして、呼び止められる。

「すみません。お、お話したいことが、あります」

「何だ。これから演習の準備があるから、手短にしろ」

「あ、いえその…」

 少年は焦った。頭の中で何度も考えた台詞を組み立てる。

「込み入った話なら、夕食の後にでも教官室へ来い。今日の当直は俺だから」

「はい」

「それから、もしもその気があるなら、そのときに先日の課題を持って来い」

「先生、それって」

 少年はすがるような目でタリウスを見た。

「見てやっても良い。但し、それ相当の覚悟を決めてから来い」

「ありがとうございます!」

 教官の言葉に、少年は深々と頭を下げた。地を見詰め、遠ざかる靴音を聞きながら、身体
が震えるのを感じた。

 何の味も感じないまま食事を済ませ、ひとまず自室へと戻る。引きだしから作文を取り出し、
最後にもう一度読み返した。それは前に教官から突き返されたものではない。あれから書き
直し、その後も推敲を重ねた。奇麗事を並びたてるのはやめ、真実を書いた。

「失礼します」

 教官室の前で名を名乗り、許可を得て入室する。高鳴る心臓を抑えようと、マーティンは大
きく息を吸った。

 候補生が記載台の前へ立っても、教官は依然として書類に目を落としたままだった。

「用件は?」

 短く問われ、自分は教官に呼ばれてここにいるのではないと改めて認識する。自らの意志で、
教官に時間を取ってもらっているのだ。

「お忙しいところ申し訳ありません。先日の非礼な態度を、お詫びしに、来ました」

 教官はペンを置き、そのまま自分に向かって手を差し出す。一瞬その意味を考えた後、マー
ティンは持参した課題を渡した。静寂の中、ページを繰る音だけが響く。

「これを読む限り、お前に足らないものは、誠意ということになるが」

 この一週間余り、自身に足らないものを必死に考えた。現段階では、足りているものを捜す
ほうが困難なくらいだったが、やがて彼は一つの結論に達した。

「体を動かすことは好きだし、得意でしたけど、でもそれ以外は全然ダメで。演習をしていても
手順とか覚えられなくて、何回やってもダメで、やってもやらなくてもどうせ怒られるならもう同
じかと思って…」

 ごくり、マーティンは唾を呑む。そして、顔を上げた。

「諦めて、手を、抜いていました…」

「馬鹿者っ!!」

 教え子の言葉を聞くや否や、タリウスは立ち上がって椅子を蹴り倒す。

「も、申し訳ありませんでした!!」

「手を抜いていただ?そんなものは候補生以前の問題だ!」

 タリウスは怒りに燃えた。少年の告白に猛烈に腹が立った。

「お前のためにどれほど教官たちが心を砕いてきたと思う!」

「申し訳ありません」

「何某かの志があって試験を受けたんじゃないのか?何故こうも簡単に自分に負けた!」

「すみません」

「いいや、お前だけは許さない」

 タリウスは壁に掛った籐鞭を取り、力任せに記載台を打った。

「机に手を付け。暴れたら拘束する」

 彼はマーティンが着衣を脱いでいる間、目を閉じて呼吸をした。そうすることによっていく
らか冷静さが戻ってくる。

 ピシリと、身を切るような痛みが走る。マーティンが時折嗚咽を漏らすが、教官は気に止
めることなく黙々と鞭を与え続けた。無数の裂傷が身体に浮かび、やがてそれが幾重にも
重なる。

 教官から懲罰を受けるのはこれが初めてではない。これまでも小さな命令違反をいくつも
繰り返し、その度になおざりな誓いを立てた。記載台が自らの涙で濡れるのを見ながら、
彼はこれまでのことを思い返していた。

「申し訳ありませんでした」

 元より簡単に許されるわけがないとわかっていた。教官に言われるまでもなく、自身でも
士官候補生としての資質に欠いていると理解していた。それでも、万に一つもやり直せるの
ならと、藁にもすがる気持ちで果てしない苦痛に耐えた。

「うっ!」

 弾かれたような衝撃が身体に走った。何かが転がる音がし、教官が鞭を捨てた。

 着衣を戻すように言われ、マーティンはぼろぼろになった身体を引きずるようにして起き
上った。

「出て行け」

「先生!!」

 冷酷な言葉に、マーティンは一言発してその場へ崩れた。

「目障りだ。とっとと出て行け」

「申し訳…ありませんでした。先生が怒るのは、当然だと思います。自分でも最低だと思い
ます。でも、それでもやり直したいんです」

 涙にまみれてうまく発音出来ない。教官の顔を見ることも出来なかった。

「誰がお前の言葉など信じるか」

「今は、信じてもらえなくても、ちゃんと信じてもらえるよう努力します。もう決して手を抜い
たりしません」

「無駄だ。お前に出来るわけがない」

「一から出直します。何でもします。見限らないでください」

 断ると切り捨ててしまうのは容易だ。そのほうが、少年のためにも良いのかもしれない。
しかし、難関と言われた選抜試験を通過してきたということは、少なくともその時点では適性
があったということになる。育てきれなかったのは、他でもなく自身の指導力不足である。

「変わりたいんです!!」

 自身の足にすがり、極めつけの一言を叫ばれ、彼は腹を決める。

「正真正銘、これが最後のチャンスだ」

 この落ちこぼれの成長を見守ることが、己に課せられた使命だと受け入れることにした。


 一夜明け、彼は出仕してきた教官と簡単な引き継ぎを行った。

「昨日の夜、何があったんだ?朝から予科生がうようよいて、挙って罰掃除してたけど」

「いえ、私は命じていませんが」

「サミュエルにも?」

「あいつもいたんですか?!」

 昨夜は足腰が立たなくなるほど打った。訓練には出てくるだろうと思ったが、それ以外極力
無駄な体力は使わない筈だ。

「むしろ率先してやってた。変われば変わるもんだな」

「きっと仲間に恵まれたのでしょう」

 これなら、本当に彼が変わってくれる日もそう遠くないかもしれない。


 了 2010.10.25 「鉄は熱いうちに」SIDE B