テーブルの上に乗せられた対称的な二本の腕。片や鍛え抜かれた頑丈な腕、対するはか細い、
頼りない腕である。両者が交わり合図を待つ。

 勝負開始直後、か細い腕が健闘するも、数秒後には頑丈な腕に軽々と倒されてしまう。

「あーっ!!もう一回!ねぇお兄ちゃん、もう一回やろうよ」

 先程から一体何度同じことを繰り返しただろうか。負けず嫌いは母親譲りかとタリウスは苦笑
いをする。

「シェール、今日はもうおしまいにして寝よう」

「やだ!もう一回だけ」

「もう一回やったところで、どうせまたもう一回と言うのだろう」

「今度は勝つもん」

 弟は頬を上気させて悔しがる。きっと勝てると信じて疑わないのだ。

 実際のところ、彼は歳の割りには力があった。同じ年頃の子供と勝負すれば、まず一等賞は
堅い。

「諦めな、ぼっちゃん。相手が悪いよ」

 そこへ女将が通り掛かる。台所の明かりを落としに来たのだろう。

「でも!」

「それに、早く寝ないと明日起きられなくなるよ。明日は出掛けるんだろう?」

 明日は兄の仕事が休みで、前々から楽しみにしていたお出掛けの日である。シェールはまだ
少し不満そうにしていたが、タリウスに促され、食堂を後にした。


 翌朝、いつもどおり目を覚ましたタリウスを言い様のない倦怠感が包んだ。ひどく頭痛がして、
身体に力が入らない。

「おはよう、お兄ちゃん」

「おはよう」

 天使の笑みに、なんとか笑い返そうとするが、それすら辛い。

「どうしたの?」

 そんな自分の異変に気付いたのだろう。弟は心配そうに顔を覗き込んだ。

「大したことはない。ただ少し、気分が悪い」

「大丈夫?頭痛い?お熱ある?」

「大丈夫だよ。シェール、すまないがひとりで食事に行ってくれるか?その間、もう少し休み
たい」

 弟に余計な心配を掛けたくなかったが、明日からは普段どおり働かなくてはならない。休
める機会があるなら、重篤になる前に治しておきたかった。不安そうにするシェールを、大
丈夫だからとやんわり部屋から追い出し、姿が見えなくなると、すぐさま眠りに落ちた。

 しばらくして、何者かが戸を叩く。彼は再び目を覚ました。

「ちょっといいかい?」

「どうぞ」

返事を返し、起き上がる。相変わらず頭がズキズキと痛んだ。

「良いから寝てなって」

女将は持って来たおぼんを棚へ置くと、ベッドへ座ろうとするタリウスを制した。

「すみません、大したことはないのですが、シェールが何か言いましたか?」

「ぼっちゃん、血相変えて心配してたよ」

「本当に大したことは…」

「あんたは働き過ぎなんだよ」

 タリウスの言葉を女将が遮る。

「普段は朝から働き詰めで、夜と休みはぼっちゃんの相手。いつ休んでいるんだろうって、
気にはなっていたんだよ」

 若いからって過信しちゃだめだよとまで言われ、ばつが悪いことこの上ない。

「適当に食べて、煎じ薬飲んで、昼まで寝ておいでなさいよ」

「本当に大丈夫ですから」

「今日のあんたに説得力はないよ。ぼっちゃんは私が見てるから、とにかく休みな」

 ハイハイと女将は乱暴に毛布を被せる。すっかり病人にされてしまった。だが、それでも
内心ほっとしたのもまた事実で、彼は言われたとおり食事に手を付け、薬を飲む。そして、
泥のように眠った。

 どのくらい眠ったのだろう。なんとなく人の気配がして、タリウスは三度目を覚ました。身
体がずっと楽になり、頭痛もしなかった。ゆっくり起き上がると、小さな弟の後ろ姿が目に
入った。

「シェール」

どうやら弟は絵本を取りにきたようだった。

「お兄ちゃん。起こしちゃった?」

「いや、もう起きるところだった」

 すまなそうにする弟に、気にするなと笑った。そのまま立ち上がろうとすると、シェール
が飛んで来てそれを阻止する。

「寝てないとだめなんだよ」

「もう大丈夫だよ」

 弟の口振りは真剣そのもので、それがむしろおかしかった。

「ダメ!」

「だめって、おい。遊びに行きたくはないのか?」

 大分遅くなってしまったが、今からでも近場になら充分出掛けられる。だが、シェールは
ほんの少し悩んだ後、首を横に振った。

「いい。だってお兄ちゃんのが大事だもん」

 弟の言葉に不覚にも泣きそうになった。やはり今日は調子がおかしい。彼は弟を引き寄せ、
コツンと額を合わせる。

「良かったよ、お前のお兄ちゃんやってて」

「へ?」

 不思議そうにするシェールをぎゅっと抱き締める。よくわからないが、兄が何か良いこと
を言ってくれているのは確かである。シェールは嬉しくなって、そのまま自分もタリウスに
しがみついた。

 やわらかく、頼りない弟を抱きながら、彼のためなら何でもできるとタリウスは再認識した。


 了 2010.5.30 「鬼の霍乱」