それから数日後、シェールはこの上なく退屈な時を過ごしていた。持っている絵本は
朝からすべて読んだし、お絵描きにも飽きた。兄は勿論のこと、ユリアも仕事に出てお
り、唯一の遊び相手である女将も、昼食が終わったこの時間は昼寝をしている。

 そこでふと、最近成功率の上った逆立ちをしてみようかと思ったが、万一失敗してま
た物を壊そうものなら確実にお尻を痛くされる。そんな恐ろしいことは出来ない。

 そもそも、いつもなら好き勝手に外で遊んでいる時間である。だが、今はあいにく外
出禁止の罰を受けている。それは、兄の帰りが遅いのを良いことに、ちょくちょく門限
を破っていることがばれたためだたった。しかも、今度やったらお仕置き、と釘を刺さ
れている。

「ちょっとくらいなら、良いかなぁ」

 窓から外を覗くと、小鳥も草花も自分を誘っているようだった。もう耐えられない。
 朝から今まで我慢したのだ。庭に出るくらいなら許されるだろう。どちらにしても、
 兄が帰る前に戻れば良いことだ。そう自分に言い聞かせ、裏庭へと降りた。

 しばらくは上機嫌で庭を駆け回っていたシェールだったが、人間欲求はすぐに大き
くなるわけで、今度はいつもの遊び場に行きたくて仕方なかった。広場に行けば面白
いことがあるかもしれないし、時折顔を合わせる遊び仲間もいるかもしれない。

 言いつけを破るのは兄を裏切るようで心が痛むが、その兄だって始終自分を見張っ
ているわけではない。どちらかと言えば放っておかれているのが常である。

 空を見上げると、なんだか雲行きが怪しい。シェールは少しだけと心に決めて結局出
掛けて行くのだった。

 一方、その頃兄はというと、上官の下で書類の整理に追われていた。本来は夕方から
演習が予定されていたが、天候不順で中止となった。そこで、期せずして生まれた空き
時間は上官の補佐に充てられた。

 タリウスは書類から目を上げ、窓の外へと視線へ向けた。まだ降り出してはいないが、
それも時間の問題だった。

「気になるのか」

 先ほどから幾度か同じ動作を繰り返している部下に、ゼインが声を掛けた。

「いえ、雷雨になりそうですね」

「時季だからな。それがどうかしたか」

「シェールがひどく雷を怖がるものですから…」

 申し訳ございませんと頭を下げ、そのまま書類へ視線を落とす。そんな部下を見て、
ゼインはコトリとペンを置いた。

「帰りたまえ」

「ですが」

 そんなつもりで言ったわけではなかった。タリウスは上官の申し出に心底恐縮した。

「演習はなくなったのだし、今やっているそれも急ぎではない。上の空で仕事をするなら、
帰ったも同じ。いや、後者のほうが一層潔い。そういうわけだから、とっとと帰りたまえ」

 ゼインは一気に捲し立て、こちらへ近付いてくる。そして、書きかけの書類を取り上げ
てしまう。こういうところは昔から少しも変わらない。

「ちゃんと構ってやらないと、またいつ先日のモリスン少佐みたいなことが起こるか。
君はもう少し危機感を持ったほうが良い」

 二度目は庇ってやらないぞとすごまれ、タリウスは辟易した。ここは上官の厚意に有り
難く甘えるより他ない。彼は立ち上がり、執務室から辞した。

 兵舎を出ると、既に雨が降り出していた。次第に雨足は強まり、遠くで雷鳴が轟くのが
聞こえる。弟のことだ。毛布をかぶって震えているか、はたまた女将にしがみついて泣い
ているか。いずれにせよ一刻も早く行ってやりたかった。

 宿屋の玄関には、女将とユリアの姿があった。

「シェール君がいないんです」

「いないって、そんな筈は…」

 今日は何処にも出掛けるなと言ってある。

「でもいないんです。私、捜して来ます」

「いえ、私が。あなたはシェールが帰ってきたら、今度こそ部屋で大人しくしているよう言っ
てください」

 一方的に言うと、ユリアの返事を待たずして彼は踵を返す。元来た道を駆けながら、懸
命に心当たりを整理した。

 さて、シェールはといえば、広場にある木の下でうずくまったまま泣いていた。いつ来る
かわからない閃光と轟音にすっかり怯え切り、身動きが取れなくなってしまったのだ。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん」

 目を閉じ、耳を塞ぎ、呪文のように繰り返すのは兄のことだった。

 しばらくそうしていると、急に雨が当たらなくなる。目を開けると、くだんの兄が呆れ顔で
自分に傘を差し掛けていた。

「呼んだか」

「お兄ちゃん!」

 シェールは兄の姿を認めると、すぐさますがりついて激しく泣いた。

「こんなところで何をやっているんだ、お前は」

「ごめんなさい!ごめんなさい!」

 泣きながらひたすら謝罪を繰り返す弟を見て、タリウスは怒る気も失せた。

「それは後でまた聞くから、とにかく帰るよ」

 弟の手を取って立たせようとする。だが、よほど怖かったのかシェールは腰が立たない。

「ほら、歩け」

 そう言われても、出来ないものは出来ない。

「まったくもう。わかった、わかったよ。おぶってやるからお前は傘をさせ」

 弟に傘を押し付け、自分は背を差し向ける。

「俺は良いから、自分が濡れないようにしなさい。これは命令だ」

 こうでも言わないと、背中の弟は喜んでずぶ濡れになるだろう。タリウスはそんな厄介で
大切な荷物を背負い、家路を急いだ。