それは突然やってきた。事件とはいつも唐突に起こるもの、そうとわかっていてもや
はり慌てふためくのが人間である。

「ああ、タリウス殿。お疲れ様です」

 玄関の戸を開けると、小声で話しながらユリアが駆け寄ってくる。その様子からすぐ
さま何かあったと理解したが、彼女が声をひそめる理由まではわかりかねた。

「お疲れ様。何か?」

「ええ、お客様がお待ちです」

「客?」

 既に夜は深まり、余所へ来訪する時間ではない。随分前から待っていたということだ
ろうか。

「夕方お見えになって、さっきまでシェールくんと遊んでいらしたのですが、もう遅いので」

「シェールと?一体…」

 人懐こい弟のことである。誰とでもすぐに仲良くなれるのはわかる。だが、それにして
も心当たりがなかった。

「女性士官のようです。お名前は伺っておりませんが、シェールくんとも面識があるよう
です」

 その職業を聞いてすぐに思い浮かぶのはひとりだが、生憎彼女はもうこの世にいない。
 ともかくこれ以上待たせるのも憚られ、タリウスは外套を脱ぎながら廊下を進んだ。

「大変お待たせして、申し訳ありません」

 客人は食堂の隅に所在なげに座っていた。外出用の礼装に軍長靴、紛れもなく士
官である。おまけに、徽章にあしらわれた星の数は彼のものより多い。

「いつもこんなに遅いの?」

 まるで責めるような物言いに、タリウスは眉をひそめる。どう考えても、彼女とは初
対面である。確かに長時間待たせたのはこちらに非があると言えなくもないが、それ
にしたって約束もなく押しかけられたのではどうしようもない。

「調度忙しい時期なので」

 しかし、正体不明の相手とやり合うのも巧くない。そう思い、ここはひとまず下手に
出た。

「その間、シェールはずっとほったらかし?酷い話ね」

 流石に今度は明確な悪意を感じる。その質問に答える義務はない。

「失礼ですが」

「ミゼット=モリスン。今は北部の所属だけれど、元はこっちの出身よ。エレインとは
同期なの」

 最後の一言で、ようやく合点がいった。エレインから、共に候補生時代を生き抜いた
女性士官がいると聞いたことがあった。男でも相当に過酷な二年間である。ましてそ
れが少女であるなら、その苦悩は計り知れない。

 彼女たちはいわゆる親友なのだろう。そんな親友の子であるシェールが、彼女もまた
可愛いのだ。

「シェールに会いにいらしたのですか」

「ええ、そんなところね」

 しかし、それならば何故こんな刻限まで自分の帰りを待ったのだろう。それに、彼女
を包んでいるこの鋭い刺のような雰囲気は一体何だろう。現場にいたとき、自分も仲間
も絶えず張り詰めた緊張感を持っていたが、それともまた違うように思えた。

「シェールを私に頂戴」

 椅子に腰掛けたまま、目だけがこちらを見た。

「おっしゃっている意味がわかりません」

 思わぬ攻撃にタリウスは内心動揺した。だが、あえて視線を逸らさず、真っ向から相
手を見据える。

「私がシェールを引き取るという意味よ。深く考える必要なんてないでしょう」

「そうですね」

 その返答にミゼットは満足そうに微笑んだ。

「お断りします」

 しかし、次の台詞に彼女は勢い良く立ち上がり、タリウスを睨み付ける。

「どういうこと?」

「どうもこうもありません。突然やってきて、シェールをくれと言われ、はいそうですか
と渡すはずがないでしょう。あなたのほうこそ、一体どういう了見ですか」

 シェールは身内でも何でもないが、それでも今日まで大切に育ててきた。自分にとっ
ては家族である。そう易々とくれてやるほど広い心は持ち合わせていない。

「シェールは私といるべきなのよ。まあ、端からあなたの了承を得ようなんて思ってい
ないから、別に良いけれど」

「無理矢理連れて行こうと言うのですか」

「人聞きの悪いこと、言わないでよ。シェールにはちゃんと話した」

「シェールは何と?」

 答えを聞いたらすべてが終わるような気がした。だが、先延ばしにしたところで苦しい
だけだ。

「あれで、義理堅いところがあるからね」

 ミゼットの顔が一瞬曇る。それは起死回生のチャンスだと思った。

「つまり、あなたといたいとは言わなかった」
 
「明日もう一度話す。必ずわかってくれるはずよ」

 義理堅い弟は自分を選んだのだ。そのせいか、明らかにミゼットは苛立っていた。

 これならなんとかなるかもしれない。そう思うと、少しだけタリウスに余裕が生まれた。
 そこで、彼はふとした疑問を口にした。

「何故今になってこんなことを?」

「任務中だったのよ!」

 ミゼットは怒りに任せてテーブルを叩いた。そして、憎々しげに続ける。

「そうじゃなかったら、真っ先に駆け付けている。大好きなあの子のピンチだもの、私だっ
て気が気じゃなかった」

 一旦本陣を離れ行軍を始めれば、半年やそこら出たままになることはざらにある。

 そうでなくとも北部とここでは距離があるのだ。情報が伝わるにもそれなりの時間を
要したのだろう。

「あなたはたまたまその場に居合わせただけじゃない」

 それは事実である。タリウスは黙ってうなづく。

「私にはあなたにシェールが守れるとは思えない。だって、そうでしょう」

 ミゼットはそこで言葉を切り、これでもかというほど鋭い視線をタリウスへ向ける。

「エレインを守れなかったのだもの」

 氷のようなその言葉にタリウスは身動きが取れなくなる。必死に抗おうとするが、言
葉が出ない。

「見殺しにしたんでしょう?」

 冷酷な台詞は更に続く。タリウスの脳裏に、あの日のことが次々と過ぎった。

「あなたはその罪悪感から逃れるために、シェールを引き取った。私はねえ、あなたが
シェールのそばにいるというだけで、たまらなく不愉快なのよ!」

 憎悪である。彼女が身にまとっている鋭い刺の正体は、自分に対する言い様のない
憎しみと敵意だった。

「あなたに、何がわかる。今夜はもうお帰りください」

 それだけ言うと、タリウスは逃げるようにしてその場を後にした。

 気持ちの整理はもうついていると思っていた。しかし、ああも直接的に傷をえぐられ

ればやはり痛い。ミゼットの放った台詞が先程から頭にこびりついて消えないのだ。

 タリウスは耐えがたい疲労感を抱えたまま、自室へ戻った。そして、いつものように
弟のベッドに近付く。一時も早く癒やされたかった。

「シェール?」

 だが、そこには人の気配はない。タリウスの心臓が大きく音を立てる。反射的に振り
返ると、いつも自分が使っているほうのベッドで弟は眠っていた。

「驚かすなよ」

 安堵の溜め息を吐きながら、シェールの額にそっと触れた。

 着替えを済ませ、普段弟が使っているベッドへ入ろうとして、ハッとなる。何故シェール
は今日に限って自分のベッドで眠ったのか。恐らく、ここにいれば一緒に寝られると思っ
たのだろう。そうとわかると、彼は弟の隣へそっと滑り込んだ。

「お兄ちゃん?」

「すまない、起こしてしまったな」

 元々眠りが浅かったのか、すぐさまシェールが目を覚ました。

「ねえ、ずっと一緒だよね?」

 力なく囁くの声は不安そのものである。

 ミゼットのことだ。あの調子でシェールにも迫ったのだろう。

「ああそうだよ。誰にもお前をやりはしない」

 誰が何と言おうと、自分にとってシェールはもはやなくてはならない存在である。小さ
な弟もまた、そうだと言ってくれるのなら、是が非でも守るべきなのだ。