「なるほど。君は陛下からお借りした徽章を、恐れ多くも粗末に扱いなくした、そうい
うことか」

 時を溯ること十余年、ゼイン=ミルズは大層不機嫌な面持ちで教官室に座していた。
視線の先には候補生がひとり、直立不動で起立している。

「粗末になどしていません。昨日だってきちんと引き出しに…」

「そんなことはどうでもよろしい。現に今、君の襟には徽章がない。そのことが問題だ」

 必死に釈明する言葉を冷ややかに断ち切る。

「己がどれほどの罪を犯したのか、わかっていないようだね。昔は徽章が曲がっていただ
けで、訓練に出してもらえなかったのだよ。それをなくそうものなら…。口にするのも恐ろ
しい」

 吐き捨てるように言って、身震いする。

「私は徽章をなくしました。愚かな私を罰してください」

 ゼインはまるで暗唱でもするかの如くすらすらと述べた。そして、キッと少年を睨む。

「言え」

 意志の強そうな瞳と目が合う。その目が大きくしばたく。

「とっとと言え!私に許しを乞うんだ!」

 手にした鞭でピシリと机を叩き、あらん限りの声で怒鳴りつける。少年は恐怖に慄き、
口だけが動いた。

「結構。君の望み通りにしてあげよう。3秒で用意しろ」

 ゼインはひゅんと鞭をひと振りし、椅子から立ち上がった。迷っている暇はない。少年は
慌ててベルトに手を掛け、罰を受ける姿勢になる。

「遅い!」

 少年の後ろに回り込み、ゼインは大きく腕を振り上げる。

「っ!」

 ピシリと言う僅かな音、そしてそれに見合わない刺すような痛みが少年を襲う。前の痛み
が引かないうちに、何度も何度も繰り返し鞭打たれる。これでは息も出来ない。

「泣いたり喚いたりしようものなら、始めからやり直す。当然だな」

 ここで一旦ゼインの手が止まる。少年は苦しそうに息をしながら、返事を返した。

「だが、今日限り候補生でいることを止めるというのなら、解放してあげても良い。私が思う
に、君なんかが士官になれるはずもない。もう止めてしまったらどうだね」

 少年の身体には、無数の赤い筋が浮かび上がっている。ゼインは、そんな彼の皮膚の上
をぴたぴたと触った。少年は思わず飛び上がりそうになる。彼の理性が、辛うじてそのまま
の姿勢を保たせたが、今度は涙がこぼれ落ちそうになった。

「もうこれ以上、鞭打たれたくはないだろう?」

 ゼインは記載台に手を付くと、少年の顔を覗き込む。声音こそやさしいが目は笑っていな
い。

「いいえ、最後まで受けます」

 唇を噛み締め、ゼインを睨み返す。

「つくづく愚か者だ。最後がいつ来るかもわからないというのに。まあ良い。君が望んだこと
なのだからね。姿勢を直せ」
 
 ゼインは再び少年の真後ろへと立った。そして、何事もなかったかのように、少年へ鞭を
当てる。まるで機械のように、何度も何度も繰り返し打ち据える。少年は苦痛に顔を歪める。

「貴様はいつになったら愚かな自分に気付くんだ!」

 怒鳴りながら、振り上げた手を一際大きく振り下ろす。

「申し訳ありません!」

 少年の声に涙が交じる。

「何故徽章をなくした!答えろ!」

 教官の怒声が轟く。答えなければもっとひどい仕打ちを受けることになる。そう思って懸
命に考えるが、いくら考えてもわからない。自分でも知りたいくらいだと思った。 

「貴様本物の馬鹿か?」

「申し訳ありません」 

「寝る前に確かに引き出しに入れたのだろう?徽章には足も羽も生えない。だったら、誰
かに盗られたんだろうが!」

 少年の身体に衝撃が走る。鞭打たれる以上の痛さに、思わず上半身を起こした。

「嫌がらせを受けたのか、自分のをなくした奴に持っていかれたのか、その辺のところは
わからない。だがな、これが悪意の結果だということだけははっきりしている」

「そ、そんな…」

 少年はかすれた声を絞り出す。

「仲間がそんなことをする筈ないと思うかね?しかし、君が仲間と思っている彼らは、果た
して君のことを仲間だと思っているだろうか」

 教官の言葉が鋭利の刃物のように、ズキズキと心に突き刺さる。耳を覆ってしまいた
かった。

「君は確かに有能だ。成績も素行も、驚くほど良い。だが、君の周りの候補生たちはど
うだろうか。皆なにかしら不得手なことがあり、苦悩している。そこへ、もし君の手助けが
あったとすれば、救われた者も少なからずいるだろう。君は自分さえよければそれで良
いのか?」

 少年の脳裏に先日の一斉点検のことが映し出される。教官たちは、不定期に「点検」
と称して候補生の身の回りを検める権限を持っている。そこで、頭の天辺から爪先に至
るまで、候補生としてふさわしいかどうかを吟味され、机やベッドは勿論のこと、床や果
ては窓のサッシまで塵ひとつなく清掃されているかを徹底的に調べ上げられる。

 このときの点検で、彼は難なく適格と判断された。だが、彼と同室の候補生たちの結
果は惨憺たるものであった。激しい訓練の合間のことである。個々の努力では限界が
あった。他の部屋では、こういったことに長けている者が、リーダーシップを発揮して先
導していたため、結果は横並びだった。彼もそんな事情を知らないわけではなかったが、
自分には無関係だと思っていた。

 その時ばかりではない。候補生たちは日ごろ、訓練の中で皆それぞれに助け合って
生きているのだが、彼に限ってはそうではない。自分が他人の手を借りるのを潔しとし
ない代わりに、目の前で誰かが困っていたとしても一切加勢しようとはしなかった。
「我々教官が、何故規律規律と言うかわかるかね」

 自らを振り返り放心する少年に、教官はもうひとつ質問をした。

「規律は、守るべきものだから」

 ずっとそう思ってきた。それ故、理不尽と思われることにも耐えてきたのだ。

「集団で生きているからだ」

 だが、ゼインの答えは違った。

「このままだと君は、戦場で見殺しにされることになるだろう。それならばまだ良いが、
仲間を平気で見捨てるようなことをしでかしたら、それこそ私の、ひいてはこの学校の
威信にかかわる。だから、そうなる前にここから出て行ってはくれないだろうか?」

「申し訳…ありません。今日から…」

 もうこれ以上は堪えられなかった。少年はその場にぺたりと座りこむと、床に頭を擦り
付けた。

「生まれ変わるとでも言うのかね?」

「そうできるならっ、そうしたい、です。変わりたい、変わりたいっ、変わりたい!」

 少年は涙ながらにそう繰り返す。後悔、羞恥、心の中に様々な感情が入り混じる。猛省
しているのだ。

「泣いたりしたら初めからやり直しだと言ったはずだが?」

 教官の声が妙に近い位置から聞こえる。少年が顔を上げると、自分の前にゼインがしゃ
がんでいた。

「ミルズ先生」

「残念だがやり直しだ」

 ゼインは満面の笑みで宙に向かって鞭を振るった。少年はその言葉に自分が赦されたこ
とを知った。


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