「どこに行くの?」

 ある日の朝、いつものように身支度をしていると、不審そうに弟から声が上がった。

「仕事」

 タリウスは手を動かしながら、短く答える。弟がどんな反応を返えすか、もう分かり切っ
ていた。

「なんで、お休みの日なのに」

 いつもなら非番なはずの週末のことである。当直に当たっているならば、前もって話し
ておいてくれているだろう。

「急いで片付けなくてはならない仕事があってね。お昼までには帰ってくるから、それまで
良い子に…」

「いーや!」

「シェール。悪いと思っているよ」

 とてもではないが、良い子でいてくれる様子はない。こうなると予想はしていたが、いか
んせん対応策が浮かばなかった。タリウスは深い溜め息をこぼす。

「だったら行かないで。ね?」

「そういうわけにもいかないんだよ。良い子だから、聞き分けて」

 兄が忙しいのはよくわかっている。このところ連日帰りが遅く、自分が起きている間に
戻ってくることなどなかった。それでも文句も言わず我慢していたのは、週末になれば遊
べると思ったからだ。はっきり約束していたわけではなかったが、シェールは裏切られた
おもいでいっぱいだった。

「じゃあ一緒に連れてってよ」

 ふと思い立って、そのまま言ってみる。口にしたら案外良い考えなような気がしてきた。

「連れてって、って。冗談言うな。無理に決まっているだろう」

 全く何を言い出すかとタリウスは呆れる。だが、弟は大まじめだった。

「なんで?」

「そりゃお前、遊びに行くんじゃないんだから。みんなだって働いて…」

 言いながら、休日である今日は、候補生の大半が外出しているだろうことを思い出す。
兵舎にいるとすれば、それこそ当直の教官くらいなものである。うまくすれば誰にも会わ
ずに済むかもしれない。

「良い子にしてるから。ねえ、連れてって」

 考え込む兄に、脈ありと思ったシェールは、駄目押しを試みる。

「本当に、絶対良い子にしていると約束出来るか?」

「約束する!」

 それからしばらくして、小さな弟を連れて、タリウスは士官学校の門扉をくぐり抜ける。

  嬉しそうに自分にまとわりついてくる少年に、結局負けてしまったのだ。なんとなく後
ろめたくて、彼は足早に教官室へと向かった。

思ったとおり、ここまで誰とも会わなかった。

「そこで大人しくしていろよ」

 タリウスは弟を応接セットへと座らせ、自分は書庫へと入って行った。候補生の成績を
処理するには、どうしても個人別の記録が要る。教官室は当直の教官用に充てられてい
るが、幸いにも本来の主が不在だったため、彼は少しの間この場を借りることにした。

 記録を手に戻ってくると、シェールは持参したスケッチブックにかじりついていた。
何であれ静かにしていてくれるのはありがたい。タリウスは弟をそのままにして、記載台
で作業を始める。

 本科生の卒校が近付くにつれ、必然的に事務処理の量も増えた。同僚たちは空き時間
に適当にこなしているようだったが、慣れないと勝手がわからず、また、彼の場合は持って
生まれた完璧主義な性格も災いし、すべて終わらすにはそれ相当な時間を要した。

 彼があらかた作業を終わらせたときには、昼少し前だった。そろそろ片付けて帰ろうかと
思ったときに、遠慮がちに扉が叩かれた。

「先生」

 幼い声に候補生だと確信する。タリウスは慌てて返事を返し、細く扉を開ける。

「どうした」

「あれ、ジョージア先生。すみません、ミルズ先生がいらっしゃると思って」

 少年は一瞬驚いた後、気まずそうにした。 

「こちらにはいらっしゃらない。急用か」

「いえ、資料室の鍵をお借りしたくて、当直はミルズ先生と伺ったので」

 自分以外の当直の割り振りは把握していない。一瞬、タリウスの表情が引きつる。だが、
教官のほんのわずかな変化に気付くほどの観察眼を少年はまだ持ち合わせていない。

「わかった。俺が開けよう」

 鍵は詰所にある。何事もなかったかのように言って、タリウスは部屋を出ようとする。

 しかし、背後の弟が気になって仕方がない。

「すまない、少し待っていろ」

 少年を部屋の前で待たせると、彼は一旦扉を閉めた。

「シェール、ちょっと出てくるが、すぐに戻る。絶対にこの部屋から出てはいけない。
わかったか?」

 いつにも増して真剣な眼差しを向ける兄に、シェールはこっくりと肯く。これならば
大丈夫だろうとタリウスは踵を返した。

「誰かいるんですか?」

 部屋を出るなり少年にそう問われ、もはや観念するほかないと彼は自嘲気味に笑った。

「うちのチビがね、一緒に来るって聞かなくて」

 嘘をつくのも、口止めをするのも憚られ、結局馬鹿正直に答えてしまった。

「そう、なんですか」

 そういう少年の声は震えていた。

「おかしいだろう」

「いえ、そんなことは」

 候補生にとって教官とは畏怖の対象である。泣く子も黙ると思っていた教官が子供に
翻弄されているのだ。おかしいに決まっている。 

「そうか。仮にミルズ先生が子供と戯れているとして、俺ならば笑ってしまうかもしれないが」

 候補生に言うことではなかったが、考える前に口にしてしまっていた。少年は教官の言っ
たことを想像したのだろう。今度こそ笑っていた。