夕食の終わった宿屋は、しんと静まり返り火の気もない。シェールは薄暗い階段を上
がって、つい先刻まで自分の部屋だった戸に立った。

 先ほど街で出会った少年が言っていたことは、もっともだと思った。だからこそ、こう
して許してもらえないと思っていても、とにかく頭を下げに来たのだ。それでも、心の底
ではやはり許して欲しいと切に願っていた。

「お兄ちゃん」

 戸越しにそっと呼んでみるが、返事がない。

「ねぇ、お兄ちゃん」

 もう一度、今度は少し大きな声で呼んでみたが、やはり無反応である。しびれを切らし、
シェールはそっと戸を開ける。

「おにい…ちゃん?」

 いつも兄が座っているベッドに、人影はない。すぐさま隣のベッドも見たが、同じことだっ
た。一瞬、訳がわからず体中の動きが止まった。だが、心の深い部分ではその意味を理
解したのだろう。両目から涙が溢れてきた。

「少しは他人の痛みがわかったか」

 背中から、コツコツと聞き覚えのある足音が近づいてくる。振り返ると、捜し求めていた
人物が、険しい表情のまま自分を見下ろしていた。

「ごめんなさいっ。ごめんなさい!」

「何のごめんなさいだ」

 シェールがすぐにでも飛び付きそうな勢いで駆け寄るも、依然としてタリウスの口から発
せられる言葉は冷たい。大切な話をするときには、いつも自分に目線を合わせてくれる
のに、今日は遠いところから鋭い視線を投げかけるだけだった。

「さっきは酷いこと言って、ごめんなさい。今日までいっぱいいっぱいやさしくしてくれたの
に、あんなことお兄ちゃんに言うことじゃなかった。ほんとに、本当にごめんなさい」

 涙が後から後からこぼれ落ち、床を濡らした。

「親でもないのには、流石にキツかったな」

 うなだれる弟の頭に、大きな手をポンと置く。そして、目の前にしゃがむ。

「…うぇっ」

 恐る恐る顔を上げると、苦笑いを浮かべる兄と目が合った。その目は、しょうがない
なと言っているようだった。

「お前は、兄ちゃんは何言われたって平気だと思っているかも知れないが、意外にそうで
もない。俺だって人間だから、傷つくこともあるんだよ」

 弟がコクリとうなづくのを確認して、タリウスは更に続ける。

「お前に親でもないのにと言われて、腹が立ったし、自信もなくなった。そもそも親でもない
俺が、何でお前を育てているんだろうと、不安になった。お前のためを思うなら、誰か他の
人に任せたほうが良いとすら思った」

「本当にっ?!」

 淡々と語る兄を前に、シェールは目を見開く。 

「一瞬、そう思っただけだよ。今更お前を手放すなんて、出来るわけないだろう」

 馬鹿だな、と兄は笑う。それを聞いて安堵すると共に、再びシェールの中で深い後悔の
念が湧き上がってくる。こんなにも自分を思ってくれている人に対して、最悪なことを言っ
てしまった自分が許せない。

「僕…されてもいい」

 小さな手をぎゅっと握りしめて、何事かを呟く。嗚咽に紛れ、よく聞き取れない。

「ん?」

「お尻、痛くされてもいっ。お仕置き、してほしっ」

 弟は赤い顔を益々赤くする。彼はこの方法しか、償い方を知らない。

「自分からそんなことを言うなんて、どうかしているよ。俺も大人げなかったし、それに、
もうこんなに泣いているんだ。これ以上、泣かせられない」

「もう、泣かないもん」

 利き手の甲で、涙を拭う。そんないじらしい姿を眺めながら、言ってしまった手前、
後に引けないんだとぼんやり理解する。

「そうか。では、けじめをつけよう」

 タリウスは、自分のベッドへ腰を下ろす。

「ほら、おいで」

 パン!と膝を叩くと、反射的にシェールが目をつぶった。相当な覚悟を決めていた筈
だったが、いざとなると足が竦んだ。

「どうした?やっぱり怖いか」

 怖くないはずがない。しかし、シェールは頭を振って、兄の膝へ上がった。もう幾度とな
く経験したお仕置きだ。それでも、未だに慣れるということがない。目を閉じてじっとしてい
ると、いつものようにお尻がむき出しにされた。

「どんなに頭にきても、言ってはいけないことがあるんだよ」

 ピシャン!小さなお尻に容赦ない平手が弾ける。

「あぅ」

 あまりの痛さに、シェールは息を飲む。たった一度打たれただけなのに、お尻は鮮やか
に色付いた。

「人一倍他人の痛みのわかるお前のことだ。わからないわけがないだろう」

 再び腕の振り上げられる気配がして、シェールは身を固くする。だが、なかなか痛みが
やってこない。困惑していると、ぽんぽんと軽くお尻に手が置かれた。

「だから、もうしないな」

「うん…。あ、はい」

「おしまい。もう良いよ」

 タリウスは弟を抱き起し、自分と向い合せに座らせた。

「痛いか」

 目の前でお尻を擦る弟に、わかりきった問いかけをすると、小さな声でうんと返ってき
た。

「ならば、これでおあいこだ」

 言って、弟の頬を撫でる。すると、その手を涙が濡らした。

「何だよ、泣かないんじゃなかったのか」

「だって、だって…」

 他人を傷つけるようなことをしてはいけない。そんなことは、母や兄に言われるまでも
なく、自分自身でわかりきっていると思っていた。だが、無意識のうちに、よりにもよって
一番大切な人を傷つけてしまった。それも、ほんの少しの自尊心を守るためだけに。

「まったくもう、しょうがないな」

 やれやれと、泣き虫を抱き寄せる。シェールは兄の胸に顔を埋め、その手はギュッと
シャツを掴む。

「もう、だっこしてもらえないかと、思った」

「何で?」

「悪い子っ…だから」

「これ以上、このことでお前を責めたりしない」

 身体を震わせて泣いている弟が、たまらなく愛おしい。もう少し経って帰って来なければ、
こちらから捜しに行くところだった。もしもその時に、弟が自らの非に気付いていなければ、
何と言って咎めようかと頭を悩ませもした。だが、賢明な弟はこの一時間あまりで、きちん
とそれを悟り戻ってきた。それで充分だった。

「僕、ここにいてもいい?」

「ああ。お前は、うちの子だからね」

 この泣き虫で、いささか頑固者の弟を育てるのは、これから益々大変になるだろう。だが、
どんなに失敗しても、そして、どんなにぶつかったとしても、もう決してこの手を離すことは
ない。

「おやすみ」

 やけに大人しくなった弟を覗き込むと、いつの間にか嗚咽は寝息に変わっていた。すや
すやと眠りこけるその表情は、穏やかさと安堵に満ちていた。


 了 2010.2.14 「親心子心」 あとがき?