タリウスは苛立っていた。夕食の刻限を過ぎても、遊びに出掛けたままシェールが戻っ
て来ないのだ。ふたりは特に門限を決めているわけではなかったが、食事の時間までに
帰るのが暗黙のルールになっていた。

 そのとき、遠慮がちに戸が開かれる。弟分のご帰還である。

「一体、今何時だと思っているんだ。暗くなる前には帰って来なさい」

「だって」

 こうなることはわかっていた。だが、こうも頭ごなしに叱られてはやはり面白くない。

「だってじゃない。言うことを聞かないと、もう遊びに行かせないぞ」

「そんなのひどい!何でお兄ちゃんにそんなこと言われなきゃいけないの?」

「お前を教育しているのは俺だからだ」

 弟の抗議を意図も簡単にはねのける。親子ほど年の離れた兄が相手だ。逆立ちしたと
ころで敵うわけがないのだが、それでもシェールは悔しくてたまらない。だから、つい心に
もないことを言ってしまった。

「そんな、親でもないくせに」

「なっ…」

 弟の言葉に、胸をえぐられたような心地になる。一方シェールも、自分で言っておきな
がら、心の奥のほうがチクリと痛むのを感じていた。

「それは俺に対して言うことか」

 言いながら、腸が煮えくり返りそうだった。

「え…」

 尋常でない様子にシェールはたじろぐ。自分が兄の怒りに火を点けてしまったことは
わかるが、その怒りは先程までとは種を異にしていた。

「謝るなら今のうちだぞ。ひとりじゃ何も出来ないくせに、偉そうなことを言うんじゃない」

 タリウスにも、まだいくらか冷静さが残っている。だが、今日のシェールは素直にな
れない。確かに日常において、兄の手を煩わせることも少なくないが、それでも自力で
出来ることは自分でしている。何も出来ないというのは心外だった。

「そんなことない。お兄ちゃんがいなくても平気だもん」

「そうか、よくわかった。お前のような恩知らずは見たことがない。もう帰って来なくて
結構だ」

「え?どうして」

 兄の言っている意味がよくわからない。シェールは面食うばかりだった。

「どうしてだ?そんなことは自分で考えろ。ともかくお前の顔など見たくない。出て行け」

 出て行ったところで弟に行く当てなどない。後々自分で捜しに行くことになるだろう。
 そうと分かっていても、このままでは怒りがおさまらなかった。

「聞こえただろう。ここから出ていけ、今すぐにだ」

 立ち尽くしたまま動かない弟に追い討ちを掛ける。その気迫に押され、シェールは、
困惑しながら外へ出ていった。

 シェールは途方に暮れた。どこに向かえば良いのか、何をすれば良いのか、皆目見当
がつかなかった。
 
 思い返せば、前にも一度、タリウスと言い合いになって部屋を飛び出したことがある。
あの時も大層不安なおもいをしたが、心配した兄がすぐさま迎えに来た。だが、今回は
何度振り返っても、待ち人の影はなかった。

 そもそも何でこんなことになってしまったのだろう。いつもなら、何故叱られているのか
懇々と言い聞かされたし、わかるまで考えさせられた。それすらなく、突き放されたことが
悲しかった。

 気付けば、シェールはいつもの散歩コースを通って、広場へと出ていた。昼間は子供や
年寄で賑わうこの空間も、日の落ちた今となっては閑散としていた。

「あれ?ねこにゃん」

 誰もいないと思ったベンチには先客がいた。猫はシェールを一瞥すると、伸びをする。

 なんとなく疲れをおぼえて、彼は猫の隣に座った。

「何にも持ってないよ。僕だってお腹すいたし、それどころか、帰るところだってなくなっ
ちゃったんだ」

 自分に擦り寄って、文字通り猫なで声を出されても、今のシェールには撫でてやるくらい
しか出来ない。それでも生き物の温かさが恋しくて、シェールは膝の上に猫を抱き上げた。

「ひとりぼっちから、ひとりぼっちに戻っただけだもんね」

 強がって言ったものの、よくよく考えれば完全なひとりぼっちは経験したことがなかった。

 母を亡くして間もない時も、放心する自分をタリウスが支えてくれた。その後、今度こそ
ひとりになってしまうと絶望し、自ら迷子になったときも、必死になって自分を捜し出してくれ
たのはやはりタリウスだった。

 1年前までは知らない人だったのに、今となっては隣にいるのが当たり前で、これから先
もずっと一緒にいられると思っていた。自分にとっては、家族と等しかった。

「それなのに僕は」

 頭の中で、自分が言い放った愚かな台詞がこだまする。突然立ち上がられて、猫は驚い
て逃げていった。

「なんてことを」

 赤の他人でしかない自分を、タリウスとて家族同様に可愛がってくれていただろう。兄とし
て、そして時には父として、惜しみない愛を注いでくれていた筈だ。

 兄に捨てられたのではない。自分が兄を捨てたのだ。