「ジョージア先生!」

「先生、大変です!」

 候補生がふたり、自分の名を叫びながらこちらへ駆けて来る。

「先生、病院に行ってください!」

 荒い息遣いのまま少年のひとりが言葉を発する。残りのひとりは、膝に手を付き苦し
そうに息をしていた。

「誰か怪我をしたのか?」

 タリウスは眉を寄せる。

「そうです。早く、早く病院へ行ってください!」

「おい、少し落ち着け。誰がどういう怪我をしたんだ」

 泡を食って喚く少年とは対照的に、タリウスは至って落ち着いていた。

「お子さんが、怪我をしたって」

「どこの?」

「ですから、先生の」

「どういうことだ。ちゃんと順を追って説明しろ」

 彼の脳裏を小さな弟の姿がよぎる。一向に要領を得ない候補生の説明に苛立ちが募っ
た。

「先生のお子さんが怪我をしたから、病院に行くようにと、言付かりました」

 そこで、ようやく息の調ったもうひとりの候補生が口を開いた。みるみるタリウスの顔
つきが変わる。

「それは確かか?容態は?怪我って、一体何があった!」

「く、詳しいことは何も」

 その剣幕に思わず候補生たちが後ず去る。これまでこんなにも取り乱した教官を見
たことがなかった。

「では、誰からの言伝だ」

 それがわからなければ話にならない。

「えーと、そう言えば名前聞いたっけ?」

「あ、聞いてない」

 少年たちが互いに顔を見合わせる。

「どこの誰かもわからない人間から、伝言を預かる奴がいるか!」

 揃いも揃って使えない。タリウスは場違いの掛け合いをする少年たちを怒鳴り付けた。

「申し訳ありません!」

 二人は声を合わせ、姿勢を正す。

「もう良い。今後は充分気を付けろ。二人とも下がれ」

 彼は居ても立ってもいられず、すぐさま事情を話しに詰め所へと向かった。個人的な
事由で仕事を放り出すのは気が咎めたが、仕方がないと自分に言い聞かせながら。

 詰め所では、話を聞いた同僚たちが、あっさりと彼が抜けることを承諾した。日頃か
ら彼の勤務態度を知る者としては、今回の件をよほどの緊急事態だと解したのだ。

「シェール!」

 勢い良く診療所の扉を開けると、タリウスは弟の姿を捜した。

「あ、お兄ちゃん」

 シェールは椅子に座ったまま、嬉しそうに兄を見上げた。制服姿の兄を見るのはこれ
が初めてだったが、なかなか格好いいと思った。

「お前、大丈夫なのか?」

 弟の前に屈むと、咄嗟に両手を取った。

「うん。さっき木から飛び降りて、足を…」

「折ったのか?」

 心臓がドキリとした。

「捻挫しただけだよ」

 そこへ、年老いた声が割って入る。診療所の医師である。

「だから、そんなに心配することないよ、お父さん。って、あんただったんだ…」

 言いながら、タリウスの顔をまじまじと見詰める。

「どうも、お世話をお掛けしました」

 タリウスは立ち上がると、顔馴染みの医師に頭を下げた。彼には時々候補生たちが世
話になっていた。

「ああ、そう。あんたんとこの子なんだ。おばちゃんはお客さんの子としか言ってなかった
から、全然知らなかった」

「女将に連れられて来たんですか?」

「あれ、おかしいな。おばちゃんに会わなかった?」

「いえ、私は子供達から聞いて…。そうか、女将が彼らに言付けたのですね」

 そこで、ようやく伝言の主が女将だとわかる。広い敷地で自分に取り次いでもらうより、
誰かに伝えたほうが早いと思ったのだろう。いささか人選を誤ったようだが。

「女将は店があるし、あんたは仕事があるだろうから、夕方まで預かっていようと思った
んだよ。大騒ぎするような怪我でもなかったし」

「すみません。きちんと伝わって来なくて」

 自分の早とちりであることは明白だった。

「いや、しかし。あんたみたいな人でも、慌てふためくことがあるんだね。ふ、ふははは…」

 悪いと知りながらも、笑いを堪えることが出来ない。いつもは冷静な教官も人の子であ
り、そして人の親なのだ。

「全くお恥ずかしい限りです。大概のことでは動じない自信があったのですが、こいつの
こととなるとまるでだめですね」

 苦笑するほかなかった。確かに候補生たちにも非があったが、自分自身があんなに取
り乱してしまっては見えるものも見えない。いつの間にか、シェールが弱点になってしまっ
たことを知った。

「じゃあ、もう連れて帰って良いよ」

 はい、と医師は右手を差し出す。

「すみません、ありがとうございます」

 タリウスは財布から硬貨を数枚抜き取り、医師へと差し出した。

「毎度。お大事にね」

 硬貨を数えながら、踵を返す。しかし、数歩歩いたところでぴたりと立ち止まった。

「ああ、そうそう。大したことないって言っても、それでも結構痛かったはずなんだけど。
ここへ来たときも、それから治療中も、泣かなかったんだよ。な?」

「へ?あ…はい」

 突然話を振られ、シェールは慌てて返事を返す。言われてみれば、その顔に泣いた
跡はなかった。

「そうか、お前は強いな」

 泣き虫とばかり思っていた弟の、意外な一面を見せられて、タリウスはなんだか誇ら
しい気分になった。褒められて、嬉しそうにする弟の髪をくしゃくしゃと撫でる。

「さあ、帰ろう。ほら、つかまって」

 再び弟の前に膝を折り、背中を差し向ける。弟の足首まで覆われた包帯が痛々し
かった。

「でも…」

「良いから、つかまれ。お前のひとりやふたり、どうってことない」

 言いながら、本当にシェールがふたりいたらもうお手上げだと思った。


「ねえお兄ちゃん。怒らないの?」

 兄の背に揺られながら、ふとシェールは疑問を口にする。てっきりあれこれ小言を言
われると思ったが、予想に反して先ほどから兄は無言だった。

「怒られるようなことをしたのか?」

「えーだって。また危ないことをして、みんなに迷惑掛けちゃった…」

 そこまでわかっていて、何故同じことを繰り返すのか、そう思うと呆れた。しかし、
その一方でこれが子供というものなのだとも理解した。

「もしもお前が無傷だったなら、怒ったかもしれない。だけど、そうじゃないだろう。無茶
なことをしたら痛い目見るんだって、よくわかっただろう。お前が思っているほど、身体
は強くないんだよ」

「それは…よくわかった」

 耳元へダイレクトに弟の声が届く。顔を見なくても、どんな表情をしているか容易に
想像できる。彼なりに反省しているのだ。

「だったら、もう言うことはないよ」

 弟はまだ気付いていないようだが、こうなった以上しばらくは部屋で大人しくしている
ほかない。遊びたい盛りの彼にとって、これ以上ないくらい重い罰が決まっているのだ。

「うん、気を付けるよ。でも、お兄ちゃんがこんなに早く来てくれるなんて思わなかった」

「えっ。ああ…状況がわからなかったから、心配したんだよ」

 もうそのことには触れて欲しくなかった。言うまでもなく、弟もまた自分の狼狽した姿
を目にしただろう。

「最初から大したことないとわかっていたら、仕事の後に寄ったよ」

 苛立ち紛れにそう言うと、何事かをシェールが呟いた。

「ん?何だ」

 振り返るタリウスの耳を小さな手が覆う。訝しむ彼が聞いたのは、幼気な囁き声だっ
た。

「お兄ちゃん、大好き」

 弟の放った言葉に、一瞬身動きが止まる。何と返したら良いか見当もつかなかった。

「こら、ちゃんとつかまっていなさい」

 結局、口から出てきたのはそっけない台詞。しかし、そんな表層とは裏腹に彼の心中
は穏やかではなかった。体中がこれまで味わったことのない温かな感覚で満たされてい
た。それは、シェールに会わなければ得ることの出来なかった喜びであった。


 了 2010.1.24 「幼気な反乱」