「珍しいね、時間ギリギリに駆け込んで来るなんて」

 朝礼の後、タリウスは同僚達と共に詰め所にいた。朝一番のこの時間は自分が指導す
る時間ではなかった。 

「朝からちょっとバタバタしていて」

「チビッコ?」

「そう。チビッコ」

 同僚の中でも歳の近い彼、ウイリィには、予めシェールのことを話してあった。気に
なるのか、時々様子を聞かれた。

「帰ってからもガキの面倒みるなんて、本当偉いね。俺なんて、奴らのお守だけで頭が
痛いよ」

 彼もまた、教官として働くようになってから日が浅い。

「それは俺も同じだが、うちのチビは特別なんだよ。良い子だから、基本的には」

「その特別な良い子が、今朝は反乱?」

「そう。良い子なのに甘えて、ほったらかしにしていたら、しっぺ返しを食らった。随
分と淋しいおもいをさせたみたいで、今朝は仕事に行かせてもらえないところだっ
た。そういうわけだから、今日は早めに帰らせてもらうよ」

「ああ、そうしろ。朝から晩まで真面目過ぎなんだよ、お前は」

 候補生の頃から、幾度同じことを言われたか。目の前の同僚に、タリウスは苦笑
いを返すほかなかった。

「あれ?ミス・シンフォリスティじゃないか」

 俄かに辺りが騒がしくなった。聞いたような名に、ウイリィの視線の先を追った。

「ユリア?」

 見れば、良く知った顔が同僚たちに囲まれている。目が合うと、にこやかに微笑ま
れた。

「何だ、彼女と親しいの?」

 途端に、周囲が好奇な目を向ける。ユリアとは親しいも何も、言わばお隣さんだっ
たが、そんなことを言える雰囲気ではなかった。

「いや、別にそういうわけでは…」

「ここではそう答えるのが無難かも。候補生はもとより、お偉方もみんな彼女に夢中
だから」

 口籠るタリウスにウイリィはそっと耳打ちする。いまいち事情が呑み込めない。 

「彼女、ここで何を?」

「臨時雇いの教師。去年まで候補生たちに文学だの歴史だのを教えていた。あれかな。
今の先生、腰だか背中だかが痛いとかで、ちょくちょく休んでいるから。また呼ばれた
のかもしれない」

 ユリアが時折翻訳などの仕事を請け負っていることから、学のある人なのだとは思っ
ていた。しかし、士官学校に勤めていたという話は、今の今まで知らなかった。

「ジョージア教官」

 ふいに名を呼ばれ、タリウスは立ち上がった。

「統括があなたを捜しているらしい」

「統括が?」

 全く身に覚えがない。それに、捜すも何も、指導中でなければ大概この部屋にいるの
は周知の事実である。

「ええ」

 ユリアの瞳がキラリと光る。

「わかりました、すぐ行きます」

 すぐさま出鱈目だとわかったが、すましたまま返事を返した。そして、何事もなかった
かのように退出する。

「驚きました?」

 部屋から少し離れた所をゆっくりと歩いていると、ユリアが追ってくる。

「それはもう」

「何度も来るよう催促されていたんですけど、なかなか足が向かなくて。だから、今日は
お届け物のついでに」

 言って、小さな包みを差し出す。

「私にですか?」

「ええ。朝食召し上がれなかったみたいですから」

「わざわざ申し訳ない。そんなことをして頂かなくて良かったのに」

 包みを受け取りながら、恐縮する。確かに体力勝負な仕事だけに、空腹で勤務する
のは辛いものがある。しかし、候補生のように自分がしごかれる側ではないし、やって
やれないこともない。それよりもこんな風に気を遣われることに驚いた。

「とんでもない。実は…タリウス殿の探し物、私の部屋にあったんです」

 怒られるとでも思ったのか、ユリアは自分の顔色を窺っていた。そんな彼女が可笑し
かった。

「なるほど、あなたも共犯だったわけですね」

 少しも意外ではなかった。むしろそう聞いて納得した。

「ごめんなさい。止めるべきだったんでしょうけど、なんだかかわいそうで」

「いいえ、良いんですよ」

 全く怒る気にならなかった。詫びを言うユリアをタリウスは手で制した。

「ここのところずっと元気がなかったから、ちょっとお手伝いできたらと思って。うま
くいったみたいでそれは良いのですが、でも想像以上にご迷惑を掛けてしまったみ
たいで」

「今朝は絵本を一冊読んで、何とか許して貰いました」

「それはそれは。喜んだでしょう」

「本当に。あの程度で良いなら、毎日でも時間を作るべきだった」

 弟の嬉しそうにするさまが思い出され、口元が緩んだ。職場で笑うなど、以前の彼に
は考えられないことだった。

「それで、統括が呼んでいるのは私ではなく、あなたなのでしょう?」

「ええ。またここでご厄介になることになりそうです。不本意ですけど、腹を決めてきま
した」

 タリウスの問い掛けにに苦笑いを返す。そして、二人は揃って歩き出す。 

「代用教員をするとか。悪い話ではないと思いますが」

「そりゃお給金は良いし、安全だし。定職のない貧乏なミス・シンフォリスティが断る理
由なんてない、そうお思いですか」

 ほぼ図星だったが、まさか肯定できない。

「いえ、そこまでは。ただ、何が気に入らないのかと」

「だって、面白くないんですもの」

「面白くない?」

 一体何を言い出すのか。まるで子供のような言い草にタリウスは目を丸くした。

「候補生の半分が寝ているんですよ。起きてる子だって、目を開けてるのがやっととい
う感じで。疲れているのはよくわかるから、こちらもいちいち起こしませんけど」

 限界まで身体を酷使した後に、まともに座学など受けられるわけがない。しかも、そ
の後で更なる訓練を強いられることも珍しくない。候補生にとって、彼女の授業は言わ
ば中休みのようなものだった。

「それは、きちんと報告して改めさせるべきだと思いますが」

 タリウスの表情が教官のそれに変わる。

「そうおっしゃいますけど、教官達のほとんどが軍人に学はいらない、文学などくだら
ない、そう思っているのも事実です。そんな環境で子供たちが興味を持てるわけがな
いでしょう」

「そうかもしれませんが、それにしてもあまりに礼を欠いた話だ」

 確かに昔を振り返ってみると、眠ってこそいないものの、教養の授業に意欲を持って
臨んだ記憶はなかった。これでは、他人のことをとやかく言えた義理ではない。だが、
教えを授けてくれる者に対して、最低限の敬意を払うべきだという考えも根強くあった。

「ああ、それでも。何人かは楽しそうに聴いていてくれる子がいるから、それが救いで
すね。その子たちのために、この仕事を受けることにしたくらいです」

 タリウスと議論がしたいわけではなかった。そう思い、話を元へと持って行く。彼も深
追いしない。

「そういうわけですから、こちらでもよろしくお願いいたしますね、ジョージア先生」

 ユリアは初めにしたように笑い掛けると、曲がり角でタリウスと別れた。そこへ通り
掛かった候補生が、ユリアを見るなり慌てて最敬礼をしていた。通常、階級のない一
般の客人に対しては、会釈をするだけでよかったが、その行為からここでの彼女の
立ち位置がある程度窺えた。