朝、タリウスが目を覚ますと、既に弟のシェールが起き出していた。普段は自分が起
こすまでまず起きてこないだけに、ひょっとして寝過ごしたかと、枕元の懐中時計を開
けた。しかし、予想に反して時刻はいつもどおりだった。長年身体に染み付いた習慣
は、そう簡単には崩れないのだ。

「おはよう。早いな」

 起き上がって、足で床を探ると靴がない。勘違いかと思い、周囲を見回してみたがや
はり見当たらなかった。

「シェール」

 こんなことをするのはひとりしかいない。

「なあに」

「何じゃない。どこへやった?」

「知らない」

 シェールは我関せずとばかしにそっぽを向く。

「朝からお前と遊んでいる暇はないんだが」

 やや強く言ってみると、弟は明らかに不愉快そうな反応を返した。これは時間が掛か
りそうだ。そう思い、素足で床へ下り、先に支度を始めた。洗面器を覗くと、既に水が満
たされていた。朝夕の水汲みは弟の仕事だったが、その義務は果たしたようだった。

「シェール、どこへ隠した」

 一通り身仕度を終え、目につく場所を探したが失せ物は見付からなかった。タリウス
は弟の尋問に本腰を入れる。

「知らないもん」

 相変わらず、弟は折れる気配がない。タリウスは数秒間考えた後、こう切り出した。

「いい加減にしろ。何ならお尻に聞いてみようか」

 そして、小さな弟をひょいと持ち上げた。

「いやぁ!やだ!放してぇ!」

 シェールは手足をバタつかせ、逃れようと必死になる。しかし、どんなに身を捩った
ところで、鍛え抜かれた兄の腕から逃げ出すことなど到底不可能だった。

「白状するか?」

「やだ!」

 きっぱりと言い放つ。タリウスは大きく溜め息を吐いた。そして、弟を小脇に抱え直
す。ああは言ったものの、本当に叩くつもりはなかった。

「なに意地になっているんだ」

 仕方がないので、ズボンの上からパンパンとお尻を叩く。痛いかどうかに拘らず、そ
うされるだけで嫌なはずだった。

「知らないっ。知らないもん」

 全く痛みを感じないわけではなかったが、そうかといって泣くほどのことではない。
シェールはジタバタと暴れた。

「そんなに俺を困らせて楽しいか?」

 険のある言い方に、シェールの動きがぴたりと止まる。

「楽しくなんか、ない…」

「じゃあ何だってこんなことするんだよ。俺にはさっぱりわからない」

 突然大人しくなった弟を前に、タリウスは混乱した。正直なところ、弟の心が全く
読めない。悪戯はともかく、ここまで意固地になる理由が理解出来なかった。

「だって、もうどこにも行って欲しくないから」

「えっ?」

 まるで予想していなかったこたえに、すぐには意味がわからなかった。

「一緒にいたいんだもん」

「…なるほど。それで、実力行使か」

 確かにここのところ忙しさにかまけて、ろくに話もしていない。タリウスも一応その
ことを自覚はしていたが、彼としては毎晩弟の寝顔を見ていたこともあり、それはそ
れで良いかと思い始めていた。シェールにしてみれば、とんでもない話である。

「だって、だって…」

 叩かれても泣かなかった弟が涙声になる。

「ああ、こら。泣くな」

 弟を下ろし、あふれ出した涙を指の腹でそっと拭う。一度泣き出したら、復活するま
でしばらく時間が掛かるのだ。

「ごめん、シェール」

 膝を折って、弟の頭に手を置く。シェールは沈黙したままだ。

「そうだ。絵本を持っておいで」

「へ?」

 シェールは不思議そうに首を傾げた。確かにそんなことをしている場合ではなかった
が、今はともかく弟を納得させなくてはならない。幸い時間にはいくらか余裕を持って
ある。

「良いから、好きなの持っておいで」

「うん」

 言われたとおり、自分のベッドから気に入った絵本を一冊取ってくると、タリウスに
差し出した。

「ほら、おいで」

 シェールを抱き上げ、膝へと座らせる。戸惑う弟をそのままに、絵本を開いた。初め
は落ち着かない様子のシェールだったが、次第に引き込まれていく。何度も読んだ本
ではあったが、それでも嬉しくない筈がなかった。自然と口角が上がった。

「今日はなるべく早く帰る。週末はずっとお前と一緒にいる。約束するから」

 絵本を一冊読み終えると、タリウスは弟に向き直った。

「わかった。お兄ちゃん、ごめんな…」

 兄の言葉に嘘はない。そう思ったら、途端に意地悪をしたことが申し訳なく思えた。
だが、謝罪の言葉を兄は最後まで言わせてくれなかった。

「お前は悪くない」

 悪戯をしたのも、嘘をついたのも、弟の気持ちに寄り添ってやらなかった自分の責任
だと思った。この上、咎められる筈がなかった。

「お兄ちゃん…。ちょっと待ってて!」

 シェールはベッドから下り、扉の向こうへと勢い良く消えていった。