うららかな午後、宿屋の二階で、タリウスはティーカップ片手に読書に興じていた。
弟分のシェールは、外に遊びに行ったのか、しばらく姿が見えない。彼にとって、束
の間の休息である。
とそこへ、突然戸が開かれる。
「タリウス殿、大変です!」
息を切らせて走り込んでくるユリアに、ノックくらい出来ないものかと呆れる。
しかし、タリウスがそのことを口にしようとした瞬間、我が耳を疑う言葉を聞いた。
「シェール君が屋根の上に」
彼は咄嗟に立ち上がると、開け放たれた窓へと駆け寄った。出窓を足場に身を乗り出
すと、目線の先には確かに弟の姿があった。
「シェール!絶対にそこを動くな」
「あっ、お兄ちゃん」
タリウスのただならぬ様子にさっとシェールの顔色が変わった。
「早く下へ」
階下へ向かうと、宿屋の前にはちょっとした人だかりが出来ていた。
「あ、あんたたち!早く来ておくれ」
人だかりの中にタリウス達を見つけると、女将が手招きをした。そこには梯子が立て
掛けられていた。
「お騒がせして申し訳ない」
短く言って、タリウスはすぐさま梯子を上り始める。慌てて女将とユリアが梯子の下
を支えた。
「動くな!危ないだろう!!」
見れば、シェールが自力でこちらへ向かおうとしている。慌てて怒鳴ると、驚いたシェ
ールが屋根から足を滑らせた。女将を始め、皆が一様に目を覆った。
「シェール!」
寸でのところでタリウスがとらえる。しかし、そこは不安定な足場のこと。両手をふ
さがれ、バランスを失った彼はそのまま地面へと落ちて行く。
「大丈夫ですか?!タリウス殿!」
「ああ。大したことはない」
抜群の運動神経でなんとかことなきを得る。
「お前は?どこも痛くないか?」
そして、腕の中にいるシェールを覗き込む。未だ事態を飲み込めていない彼は、タリ
ウスの言葉にただコクンとうなづいた。
「そうか、良かった…」
タリウスは心底安堵し、目の前にいる悪ガキを思わず抱き寄せた。だが、
すぐに思い直すと、自分から引き離した。
「部屋に戻って大人しくしていなさい」
その声はいつになく厳しかった。
自室に戻ると、シェールは回らぬ頭のままベッドに座った。
先程、一瞬タリウスに抱きすくめられたときに感じたあの感覚はなんだったのだろう。
嬉しいような、こそばゆいような、いずれにしても懐かしい感覚だった。しばらくぼん
やりとそんなことを考えていたシェールだが、階段を上がる規則正しい足音に、我に返る。
部屋に戻るよう言ったタリウスが、これまで見たことがない怒気を放っていたことを思い
出したのだ。
「悪いことをしたという自覚はあるか?」
部屋に入ると、タリウスは静かに問うた。はい、とシェールが答える。弟に向かい合
う形で、タリウスもベッドに腰を下ろした。
「お前一歩間違えば、大怪我をするか、最悪死んでしまったかもしれないんだぞ。自分の
命を大事にするなんて、一番当たり前のことだろう。こんな当たり前のことが何故わから
ないんだ」
タリウスの説教を聞きながら、シェールはうなだれるばかりだった。
自分としてはほんの冒険心のつもりだったし、こんなに大事になるなんて思わなかった。
「後先考えずに行動するからこういうことになるんだろう。どれだけ心配したと思ってい
るんだ!」
強い語気にピクリと身を縮める。目には涙。その様子から、シェールがある程度反省
していることは見てとれたが、ことがことだけにここで許せば示しがつかない。タリウス
は心を鬼にする。
「お前みたいな悪い子はお仕置きだ。こっちへ来てお尻を出すんだ」
言って、タリウスは自分の膝をパンパンと叩いた。無慈悲な命令に、シェールは首を
横に振るばかり。
「シェール!来なさい!!」
とうとうタリウスの雷が落ちる。その気迫に思わず立ち上がるシェール。恐る恐るタ
リウスの前まで進み出ると、そっと顔を盗み見た。
「ここにうつぶせになりなさい」
無理矢理膝に乗せたのでは意味がない。シェールが自分から膝に上がるのを辛抱
強く待つ。恐怖から既にしゃくりあげていたが、あえて気に止めない。やっとのことで
シェールが膝に上がると、ズボンと下着を膝まで下ろした。観念したのか、シェールは
抵抗しなかった。
「自分のしたことがどれだけ悪いか、身を持って知りなさい」
言って、初めの一打を振り降ろす。
「痛いっ!」
予想を上回る激しい痛みに、シェールは上半身をのけ反らせた。しかし、間髪入れず
に二度三度と平手が振り降ろされる。瞬く間にシェールのお尻は桃色に染まった。
「痛い!痛いよ!」
泣き叫ぶシェールに構うことなく、タリウスは黙々と平手を与え続ける。
「お仕置きが痛いのは当たり前だ。大人しくしなさい」
尚も泣きわめくシェールを叱り付ける。そして、静かになったシェールを見て、一旦
叩く手を止める。
「前にお前が森で迷子になったとき、何と言った?」
もはや何が何だかわからず、シェールは答えられない。
「危ないことをしてはいけないとさんざん教えただろう!何故同じことを繰り返す!」
言いながら、左右のお尻に強烈な平手をお見舞いした。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
堪らず、シェールは本日初めて謝罪の言葉を口にした。その後は言葉にならず、ただ
ただ泣いた。ここまでしないと謝れないものかとタリウスは呆れたが、とりあえず許して
やることにする。
ズボンと下着を直すと、自分の前にシェールを立たせた。しばらくは手で顔を覆い泣い
ていたシェールだが、時機に落ち着いて、しゃくり上げるだけになった。
「どうして叱られているかわかるか?」
その言葉に先程までの怒気はない。
「屋根に、登ったから」
「何故いけない?」
「危ないから」
「その通りだ。ちゃんとわかったのなら、もう良い」
言って、弟の頭に手を置く。このまま側にいたらきっと甘やかしてしまう。しばらく
はひとりで反省してもらいたいと思ったタリウスは、部屋を後にした。
シェールのお仕置きから小一時間後、そろそろ頭もお尻も冷えた頃合かと、タリ
ウスは自室に戻って来た。ところが、
「まだ泣いているのか?」
予想に反して相変わらず彼は泣きじゃくっていた。
「もうそんなに泣かなくて良いんだよ」
泣き腫らした弟の顔を見ると、心が傷んだ。ベッドに腰を下ろすと、やさしく髪を撫
でてやった。すると、どういうわけかいっそう激しく泣き出した。
「シェール?おい、大丈夫か?」
既にかなり喉を痛めていたのだろう。苦しそうにむせ返った。
「ほら、もう泣かない」
シェールを抱き起こすと、背中をポンポンと叩いた。
「もう怒ってない?」
「とっくに怒ってないよ」
そんなに自分は怖いのかと、苦笑いする。一方シェールは、タリウスにしがみついて
離れようとしない。
「どうした?」
事態がよく飲み込めないものの、ともかく甘えたいのだろうと、そのままにして背中
をさすってやる。
「大丈夫。もう何も心配しなくて良い。お前が無事なら、それで良い」
「じゃあ僕のこと嫌いになってない?」
自分にぴったりとくっついたまま、顔だけがこちらに向く。愛しい弟は、お仕置きの
痛みや恐怖からこんなにも泣いていたわけではなかった。自分に嫌われたかもしれ
ないとしきりに気にしていたのだ。
「嫌いになんてなるわけないだろう」
理由などわからない。ただこの赤の他人でしかない少年のことが、今は堪らなく可愛
いかった。
「お前のことが嫌いなら、お前が屋根から落ちようがどうしようが知ったこっちゃないよ。
お前のことを大事に思っているからこそ、あんなに叱ったんだろう」
それを聞いて安心したのか、シェールはようやく手を緩めた。
「本当に心配したんだよ」
言って、弟を抱き締めてやる。この暖かで、若干こそばゆい感覚は、シェールに忘れ
かけていたやさしい記憶を呼び起こした。
了 2009.9.23 「冒険心」