タリウスが裏庭へ出ると、そこにシェールの姿はなかった。
 視線の先には森林が広がる。彼の背中を嫌な汗が伝った。

「シェールを見なかったか?」

 草むらでままごと遊びをしていた少女たちにタリウスが声を掛けた。

「シェールなら森へ行ったわ」

「森へ?」

 年かさの少女の台詞に、彼は青ざめる。
 裏庭と、教会の所有する森林とは明確な堺なく繋がっていた。手前の方へは、時折薪
を拾いに行くこともあったが、それでも子供たちだけで立ち入ることは厳しく禁じられて
いた。

「そうよ。ふふ、シェールったらきっと叱られるわ」

「うふふ。いい気味」

 くすくすと笑い合う少女たちにタリウスは冷たいものを感じる。

「そんなことを言うものじゃない」

 まだ聞きたいことはあったが、これ以上彼女たちと話す気になれなかった。

「なんてことだ」

 やはり目を離すべきではなかったと自分を呪う。だが、そんなことをしている場合で
はないと思い直し、自らも森へ分け入った。

 しばらく進むと、背中に視線を感じたような気がした。振り返ると、そこには一匹の
うさぎがいた。

「うさぎ?」

 シェールはうさぎを追って森へ入ったのだろうと思い当たる。そうだとしたら、まだ
この近くにいるかも知れない。

「シェール!どこにいる!シェール!」

 タリウスは無我夢中でその名を呼んだ。
 シェールにもしものことがあれば、エレインに申し訳が立たない。いや、それ以前に
彼自身そんなことは絶対に嫌だった。

「シェール?」

 耳を澄ますと、何かが聞こえる。タリウスは慎重に音のする方へと向った。
 次第に音は近付き、それが子供のしゃくりあげる声だとわかる。辺りを見回すと、少
年がうずくまって泣きべそをかいているのが目に入った。

「シェール!」

 自分に向かって走り寄って来る少年を、彼は膝を折って両腕で抱き留めた。だが、す
ぐさま片腕へ移すと、空いたほうの手でシェールのお尻を器用にむいてしまう。

「え…?」

 シェールは驚いて、タリウスを見上げる。その表情は、先程までとは打って変わって
険しい。

 これまで彼はシェールを諭すことはあっても、強く叱ったことはない。だが、今回ば
かりは黙って見過ごすわけにはいかない。

「どうしてこんなことをした!悪いことだってわかるだろう!」

 タリウスの大きな手が、シェールのお尻をパシンと打った。

「いやぁっ!」

 そんなに強い叩き方ではなかったが、シェールは盛大に泣きわめいた。数回打たれる
とお尻はほんのり赤く色付いた。

「本当に戻って来られなくなったら、どうするんだ」

 タリウスはお尻を叩く手を止めると、シェールに視線を合わせる。

「だって、だってぇ…」

 泣きながら、シェールは何かを訴えようと必死だった。

「だって?」

「ママは死んじゃうし、もうすぐお兄ちゃんもいなくなっちゃう。僕には…僕には帰ると
ころなんてないんだ!」

 悲痛な叫びに、タリウスは胸が締め付けられるおもいだった。だが、情に絆されてば
かりはいられない。

「だからといって、こんなことをして良いことにはならないだろう」

 厳しく言って、シェールの瞳を真向から見返す。

「何のためにエレインがお前を守ったと思う?お前に生きて欲しいからだろう。違うか?」

「それは…違わない」

「だったら、辛くても悲しくても、逃げずに生きていかなきゃいけないんだよ。もっと自分
を大切にしなさい」

 最後の一言は語気を和らげた。

「ごめん…なさいっ」

 シェールは泣きながら頭を下げた。

「分かれば良いよ。さあ、暗くなる前に帰ろう」

 言って、シェールの小さな手を取った。つないだ手からぬくもりが伝わって来る。この
手を離したくなかった。

「お兄ちゃん?」

 ふいに強く手を握られ、シェールは歩みを止める。

「お前さえ良かったら、一緒に来てもいいよ」

 自然とそんな言葉が出てきた。

「一緒って、ずっと一緒?」

「そう。ずっと一緒」

 嬉しそうに自分を見上げる少年に、タリウスは微笑み返す。

「ねえ、お兄ちゃん」

「何だ?」

 あどけない瞳がきらきらと輝く。

「僕、お兄ちゃんの弟になりたい」

「弟?俺の?」

 全く予想していなかった申し出に本気で驚く。

「うん。ダメ?」

「いや、ダメではない。ダメではないが…」

 良いのかと聞かれれば、即答できない。そもそも自分に弟が出来るなど考えたことも
ない、そう思う一方、記憶の彼方で何かが引っ掛かる。タリウスは遠い記憶の糸を手繰
り寄せる。

「ああ、そう言えば。昔、弟が欲しいと思っていた」

「本当に?どうして?」

「本当だ。気の強い姉さんと二人姉弟だったから、仲間に出来る弟が欲しくてね。子供の
頃、弟がいたらといつも思っていた。まさか、この歳になって叶うとは思わなかったけど
ね」

 言いながら、タリウスは笑った。
 孤児を引き取って面倒をみようという時点で、既に充分酔狂なのだ。この上、続柄が
どうなろうと大差なかった。

「良いよ。これからは、兄ちゃんのところへ帰っておいで」

 頭をぽんぽんとしてやると、可愛い弟分が久しぶりに笑顔を見せた。


 了 2009.12.3 「序幕」