ある日の夜、乱雑に帳簿を書きなぐりながら、エレインは頭を抱えた。テーブルの上
には領収書が数枚、散乱していた。

「ダメだ、やっぱり赤字だ」

 宿屋の経営が芳しくないのは何も今に始まったわけではない。それでも、今月はタリ
ウスという客人がいるのだ。彼からは宿賃こそ取っていないものの、必要経費は充分
過ぎるほどもらっている。その上で、ここまで苦しいのは、ひとえに宿泊客が来ない、
儲けがないことを示していた。

「あーあ」

 彼女はテーブルへ突っ伏し、気の抜けた声を上げた。するとそこへ、勝手口の戸が叩
かれた。普段から女子供しかいない家だ。勝手口は常に施錠し、滅多に使用することは
なかった。エレインの心臓は高鳴り、同時に悪寒が走った。

「はい?」

 動揺を悟られないように、出来るだけ落ち着いた声を出す。

「ここは宿屋かな?泊まりたいんだが」

 戸の向こうから、しわがれた声が聞こえた。

「すみません、ここは裏口ですから、表へ回ってください」

「え?何だって?儂は目も耳も悪くてねぇ」

「ですから、正面に回ってください」

「いや、お金なら持っているよ」

「だから…」

 これでは埒が明かない。相手が老人ならば仕方がない。そう思い、彼女はしぶしぶか
んぬきを外した。そして、戸を押し開けようとしたとき、反対側から強く戸が引かれた。

「え…」

 エレインは大きくバランスを崩す。辛うじて踏みとどまって顔を上げると、声の主と目
が合った。男は思ったより格段に若い。騙された、そう思った瞬間、男がエレインに襲
いかかった。

「金を出してもらおうか」

 首元へナイフが突き付けられる。身体が凍ったように動かなかった。

「なんだ、まるで用意して待ってたみたいだな」

 テーブルの上へ散乱した紙類の中から、男はめざとく財布を見付け出す。そして、エ
レインからナイフを離すと、おもむろに財布を掴んだ。彼女はそんな男の行動を目で
追うので精一杯だった。

「これだけってことはねえだろう?」

 言って、探るようにエレインを見上げる。

「そこか?」

 男の視線はエレインをすり抜け、彼女の背後にある扉へと注がれた。

「ないわ」

 扉の向こうにはシェールが居る。この奥へ行かせるわけにはいかなかった。

「ふん。隠そうったって無駄だ」

 男はナイフを手に、じりじりとエレインとの間合いを詰める。男に押され、後退する
エレイン。その背が扉に付いた。

「観念しろよ」

 男はせせら笑う。だが、突然エレインは足下にあった壺を拾い、男の方へ放り投げた。
壺は男の脇をかすめ、窓硝子に当たる。けたたましい音を立て、壺は硝子共々砕け散った。

「何しやがるんだ!」

 興奮した男が怒声を上げる。

「ママ?!」

 激しい物音に、シェールが目を覚ます。

「出て来ちゃダメ!」

 背後のシェールを一喝する。そして、彼女は男を睨み付けた。もはや後には引けない。

「舐めやがって」
 
 男は低く呟くと、エレイン目掛けてナイフを振り上げた。彼女は男の攻撃を躱し、そ
のままナイフを持った手を取る。男は身体を揺すって応戦するが、エレインは頑として
放そうとしない。

「ふざけるな!」

 激昂した男は、空いたほうの手でエレインに殴り掛かる。すると、彼女は突然男の手
を離す。その反動で男がふらついたところに足を掛け、床へ転倒させた。

「母親を舐めんなよ」

 ナイフを持った手を踏み付け、自由になったナイフを蹴り飛ばす。男はぐあっと声を
上げた。

「ふぅ。やれやれ…」

 エレインは溜め息をついて、踵を返した。が、安心したのも束の間、背後から男の起
き上がる気配を感じる。慌てて振り替えると、鬼の形相が目に入った。

「っ…あっ…」

 突然、エレインの胸を痺れるような痛みが襲った。痛みの元に手をやると、べったり
と血糊がついた。

「ふん、さっさと金を寄越せ」

 男の手には、別のナイフが握られていた。

「エレイン?貴様、何をした!」

 そこへタリウスが割って入る。

「野郎っ…!」

 男はタリウスの姿を認めると、エレインを突き飛ばして、勝手口へ急いだ。途中、勢
い良くテーブルを蹴り倒す。卓上にあったランプが割れ、その火は散乱した紙類に燃え
移った。

「エレイン!」

 逃走する強盗にも、燃え盛る炎にもタリウスは見向きもしない。彼は苦しそうに床に
うずくまった旧友に駆け寄った。

「エレイン?おい、しっかりしろ」

 血の気の引いたエレインを抱き起こす。彼女の身体から流れ出す血は、たちまち海の
ように床へ広がった。タリウスは辺りを見回し、手近にあった衣類を裂いて傷口に当て
た。

「あたしは良いから…シェールを。あの子を連れ出して」

「人の心配をしている場合か!」

 止血しようと必死になるが、無常にも血液は後から後から溢れ出た。

「タリウス、お願い。シェールを助けて。きっと、あの子…怖くて泣いているわ」

 彼女はもはや、息も絶え絶えだった。虚ろな目がタリウスに訴え掛ける。

「わかった」

 このままではシェールの身も危険なことは確かだった。彼はエレインの手を傷口にあ
てがった。

「すぐ戻るから、少しだけ待っていろ」

 寝室の戸を開けると、幼いすすり泣きが聞こえた。目を凝らすと、暗がりの中、シェ
ールが膝を抱えていた。

「もう大丈夫だ。こっちへおいで」

「お兄…ちゃん?ママは?」

 シェールは、泣きながらタリウスの元へ駆け寄った。

「俺につかまって。良いと言うまで、目を閉じているんだ」

 シェールの問いには答えず、そのまま抱き上げる。炊事場に出ると、真昼のような明
るさに目が眩んだ。そして、それはまたシェールにしても同じだった。

「ママ!!」

 禁を破ってシェールが見たものは、正に惨劇だった。