ドタバタと廊下を駆け抜ける音が宿屋中に響き渡った。部屋の中では静かにするようあれほど注意しているというのに、全く性懲りもない。
「廊下を走るな」
タリウスは自室の扉を開け、姿なき子供に向け小言を発した。折しも、自室と隣室以外の部屋は空き室になっており、ユリアもまた外出中である。それ故、シェールもつい気が緩んでのことだろうが、それでも約束は約束である。
階段の途中で求めていた影を見付け、こらと睨みつける。すると、シェールは叱られるのはご免だとばかりにくるりと方向転換し、すぐさま最初の一歩を踏み出した。
「走るんじゃない」
「はーい、っと、ととと…わあっ!」
そのとき、足がもつれたのか、はたまた滑らせたのか、階段を数段残した位置からシェールが転げ落ちた。
「シェール、大丈夫か?」
タリウスはすぐさま階段を下って、シェールを抱き起こす。ペシペシと頬を叩くが反応がない。
「今度は何の騒ぎだい」
階段を転がる派手な音に、何事かと女将がやってくる。
「ぼっちゃん!大丈夫かい?ぼっちゃん!!」
女将は腕の中でぐったりするシェールを見て、すっかり取り乱した様子だった。彼女は目を見開き、しきりにシェールを呼んだ。
「ん………」
その甲斐あってか、しばらくするとシェールが薄眼を開けた。
「ぼっちゃん、大丈夫?」
「ここ、どこ?」
「どこっておばちゃんの宿屋、あんたのうちだよ」
「ママは?」
シェールの問いかけに、タリウスは女将と顔を見合わせた。
「エレインはここにはいない」
「誰?」
時が止まった。
「ねえ、だあれ?」
「誰って、あんたのお父さん。覚えてないのかい?」
「えーと、パパってこと?」
記憶が混同してる。階段から落ちた拍子に頭を打ったのかも知れない。
「ぼっちゃん、あんた自分の名前を言える?」
「言えるよ。シェール。シェール=マクレリィ」
どうやらすべての記憶を失くしたわけではないようだ。しかし、相当厄介なことになったのには変わりない。
「ねえ、本当に僕のパパ?」
「いや、お前の言うパパは…」
恐らく実父を指すのだろう。
「そうだよ」
違うと否定しようとするのを女将が遮る。
「あんなに仲良しだったじゃないか」
「でも僕、全然覚えてなくって」
「転んで、頭打って、ちょっと忘れてるだけだよ。そのうちみんな思い出すから、もう宿の中を走り回るのは止めとくれ」
楽天的な女将のおかげで、シェールのみならずタリウスも、その場は大いに救われた心地がした。気を取り直して、改めてシェールの具合を確かめるが、特にこれと言った外傷はない。そこで、彼らはひとまず自室へ引き上げることにした。
「その絵本なんだけど、ちょっとだけ見ても良い?」
少年は遠慮がちに自分を窺った。思えば、ここへ来たばかりの頃のシェールは始終こんなふうだった。控えめで、遠慮がちで、いつも何かに耐えているように見えた。
「良いも悪いも、それはみんなお前のものだ」
「これみんな?みんな僕の?」
「ああ、そうだ。いつの間にか随分増えたな」
いくらシェールの保護者になったとはいえ、日中は仕事に行かなければならない。当然と言えば当然のことではあるが、それでも幼い子供をひとり残して出掛けるのは心苦しく、せめて淋しくないように、退屈しないようにと最初の絵本を買い与えた。
その後も、事あるごとに絵本は増え、今ではシェール専用の物入れからも溢れつつある。気付けば、自分から新しい本をねだるほど彼は自分に心を許していた。
「確かお前のお気に入りは…」
「これ!」
物入れの前で、本を選ぶ指がぶつかる。
「思い出したのか?」
「ううん。なんとなくこれかなって思っただけ。他のことは………だめだ。全然思い出せない」
気に入りの絵本を見詰めたまま、シェールは肩を落とした。
「心配しなくても時機に思い出す。それより、久しぶりに読んでやろうか」
「え?いいの?」
かつては読めとせがまれることも度々あったが、現在ではシェールもひとり読書を楽しみたいようで、一緒に本を広げることはなくなっていた。
「だが、エレインほどうまくはないから、期待するなよ」
「うん、しない」
さらりと返され、思わず笑ってしまう。これもまた前と同じ反応である。
「寝顔は全く同じなんだがな」
半分ほど読んだところで、シェールのそれが寝息に変わった。
ひょっとして、シェールにとって、自分と過ごした歳月は記憶から消し去りたいようなものだったのだろうか。もしも、このまま抜け落ちた記憶が取り戻せないとしたら、この先どう接すれば良いのだろう。タリウスはどうにもいたたまれなくなり、何をするでもなく部屋から退出した。
「シェール!」
自室に戻り、まず始めに目に飛び込んできたのは、妙に高い位置にあるシェールの背中だった。出窓に上がるときには窓を閉めるよう、幾度となく言ってある。だが、今となってはその言い付け自体記憶にないのだろう。今にも外へ飛び出しそうなシェールを見て、鼓動が早くなった。
「下りなさい」
「やだ!」
「シェール、そこから落ちたらただではすまない」
「それでも良い!もう一度頭を打ったら思い出すかもしれない」
「馬鹿者!そんなことをして死んだらもとも子もない!それこそ記憶を取り戻すどころの騒ぎではなくなる」
「でもっ」
「言うことを聞け!!」
腹の底から怒鳴ると、瞬間的にシェールがたじろいだ。タリウスはその隙に子供の首根っこを掴み、窓から引きずり下ろしに掛る。
「やだぁ!」
「こら!」
しかし、シェールが激しく暴れ、抑え込もうとしばらく揉み合った末、タリウスは背面から床に倒れ込んだ。
「ねえパパ、大丈夫?」
腹の上のシェールが不安そうにこちらを覗き込む。ひとまず無事なようだが、お陰でこちらは背中や腰を強か打った。
「どうしてお前はいつもいつもそう目先のことしか考えられないんだ」
「だって、自分のことが思い出せないなんてやだよ。ここであったことも、考えたことも、パパのことも、何にも覚えてないなんて、そんなのやだ!」
「覚えていないのならもう一度覚え直せば良い」
「どうやって?僕は自分が何を忘れたのかだって覚えてないのに」
「そんなもの、一から俺が教えてやる」
今更何を考え込む必要があるのだろう。これまでだって、ゼロから関係を作り上げてきたではないか。少しくらい時間が戻ったからと言ってさしたる問題はない。
「俺はお前のことなら何だって知っている」
「そんなのうそだ」
「嘘じゃない。お前の好物はチョコレートとミゼットさんで、苦手なものは相変わらず雷と暗いところだ。お前は今、どんなオバケにも太刀打ち出来るよう、剣の修行に勤しんでいる。それから…」
シェールは口を開けたまま、淡々と語られる自分について聞き入った。
「それから、お前の一番嫌いなものはな」
「うん」
「お仕置きだ」
「オシオキ?」
何だろう、物凄く嫌な響きだった。
「え!何?!」
タリウスは上半身を起こし、そのまま膝の上へシェールを抱え込んだ。
「忘れてしまったのなら、もう一度躾直すまでだ」
「やっ!何?」
慌てて振り向くと、着衣を脱がされ剥き出しになったお尻が見えた。
「うそぉ」
大きな手が容赦なく襲ってくる。ピシャリ、ピシャリと盛大な音が鳴る度、お尻が熱くなった。
「やだ!パパ、こんなのやだ!」
「ひとつしかない自分の身体だ。お前自身が大事に扱わなくてどうする」
「あーん!もうやだ!やだやだ!」
お尻は益々痛くなり、とてもではないが我慢出来ない。シェールは逃れようと両手で床の上を叩いた。
「そんなことを言っているうちはやめない。いいか、シェール。危ないことはしない。一番初めに教えたことだ」
なおも平手打ちを食いながら、次第に意識が薄れていく。耳が遠くなり、やがて痛みすらも感じなくなった。
「ちょ、やめてよ!僕が何したって言うのさ」
「お前はまだそんなことを言うか」
「だって、本当にわかんないもん。とうさん、勘弁してってば」
「うるさい!………ん?今何と言った?」
「え?勘弁してって言ったけど」
「そうじゃない。その前だ。シェール、俺が誰だかわかるか?俺は誰だ」
乱暴にシェールをつまみ上げ、床へ座らせる。
「まさか記憶喪失?」
「良いから答えろ」
「んもう、名前はタリウス。士官学校の先生で、僕の先生でもあって、僕の家族。とうさん、どう、思い出した?」
「ああ、そうだ。良かった…」
「ちょおっと」
未だ裸のままのお尻を擦っていると、今度は頭から痛いほどに抱き締められた。シェールはさっぱり事情が飲み込めず、渾身の力で父の腕を振りほどいた。
「ちっとも良くない!目が覚めたらお尻をぶたれてるなんて最低だよ!」
「まあ、それはそうだが」
「僕、何したんだっけ」
シェールががさごそとお尻をしまう。何となく悪いことをしたのだという心当たりはあった。
「覚えていないだろうが、そこの窓から飛び降りそうだったから、叱っていた」
「そんなことしないもん」
「それがしたんだよ」
「だって、昔、ここに来たばっかりの頃、窓から屋根に上って、思いっきりお尻をぶたれて、もうしないって約束したもん。だからもうしないもん」
どうやら彼はすべてを思い出したようだった。自分のことも、その自分との大切な約束も、痛かったお仕置きも。
「ねえ、聞いてる?」
「ああ、聞いているよ。シェール」
「なあに?」
見た目には全く変化がない。しかし、今目の前にいる彼こそが、愛してやまないシェールである。
「おかえり」
〜Fin〜 あとがき